2023年3月10日、宮城県石巻市出身のバレーボーラーで、日本代表としても活躍した藤井直伸さん(東レアローズ)が、31歳の若さで亡くなった。同じ石巻市出身、かつ同世代の筆者は、縁あって6年前から藤井さんを取材し、食事を共にすることもあった。日の丸を背負う選手となっても、謙虚で、ひた向きで、茶目っ気があって、バレーボールに熱い藤井さんの人柄に惹かれ、尊敬していた1人だった。
選手生命を脅かしかねない大ケガ、東日本大震災、オリンピック後の胃がん判明…。そんな中でも必死に生き抜いた彼の生き様を少しでも多くの人に知ってほしいと思い、筆を執る。
始まりは“バレーボール部しかない”中学校
「ナオを取り上げてよ。」
取材を始めたきっかけは、藤井直伸さんの中学時代の1学年先輩で、筆者の高校時代のバレーボール部同期の友人からの言葉だった。藤井さんは宮城県石巻市・雄勝町熊沢地区出身。石巻市中心部から車を1時間ほど走らせた雄勝半島東端にある小さな集落で生まれ育った。小学校時代は野球に打ち込むものの、旧大須中学校(宮城県石巻市雄勝町)にはバレーボール部しかなかった。
この記事の画像(16枚)藤井さんの両親は、「当初は、野球部がある中学校に入るという話をしていたが、結局、小学校の同級生と別れたくなくて、嫌々ながらも、バレー部しかない大須中学校に入学した」と話す。望んでバレーボールと出会ったわけではなかったようだ。実際、野球好きはその後も変わらなかったようで、取材の合間にはよく地元・楽天イーグルスの話をしていた。
仲間とともに、中学から始めたバレーボール。藤井さんは、セッターとして中学の県選抜に選ばれるなどメキメキと頭角を現す。そこで、バレーボールの強豪校・古川工業高の当時の監督・佐々木隆義さん(現石巻工業高校教頭)の目に留まった。佐々木さんは何度も大須中に足を運び、「一緒にバレーをやろう」と藤井さんを説得。藤井さんは古川工業へと進学することを決意した。
努力と周囲の支えで歩んだバレー人生
期待されての古川工業高への入学だったが、入学直後、藤井さんは膝の骨を折る大けがをしてしまう。以前、佐々木監督は取材に対し、当時の様子を以下のように語っていた。
古川工業高時代の恩師・佐々木隆義さん:
数か月ベッドの上で過ごすような時期があったが、その時もボールを常に持ってパスの練習をしている光景を見た。その練習が、実はトスの練習にとてもよかった。私がやれといったわけではないんですが、とにかくボールを触りたいという気持ちから、そういう練習していたと思う。予想よりも、どんどんうまくなっていると感じました。
ベッドでの自主練習の成果もあり、ハンドリングの質も向上した藤井さん。佐々木監督のもと、持ち味の「速いトス」を磨いた。佐々木監督によると、関東大学リーグ強豪校から多くの誘いを受ける一方で、藤井さん本人には、地元で消防士になりたいという希望もあったという。そんな藤井さんを佐々木監督は、「お前はここで終わる選手じゃない」と説得。結果、順天堂大学への進学を決めた。しかし、大学に進学した藤井さんは「バレーを続けていくか」選択を求められるほどの大きな岐路に立たされる。大学1年生の終わりに発生した東日本大震災だ。
海沿いにあった実家は全壊。父は職を失った。「家族が大変な中、自分はバレーボールをしていていいのか…。」深い葛藤の中にあった藤井さんを支えたのは、周りの多くの人だった。大学は被災した学生の授業料を免除。古川工業バレー部OB会が中心となり、被災した実家の復旧を手助けしたという。
「希望の星になれたら」故郷への思い
大学卒業後、静岡県三島市を本拠地とする東レアローズに入団。
東北高校出身の富松崇彰さんと共に、2016/2017シーズンは、リーグ制覇の原動力となった。優勝後の会見で藤井さんは「支えてくださった方がたくさんいた。その方々に少しでも、今回の優勝という形で、恩返しできたのかなと思う」と感謝の思いを語った。
そうした活躍もあり、日本代表に初選出された2017年夏。筆者は、宮城に帰省してきた藤井さんとともに、石巻市雄勝町の実家跡地を訪ねた。その時藤井さんが筆者に語っていたのは、「故郷のために活躍したい」そんな強い思いだった。
藤井さん:
子供のころは、庭より海の方へ行って遊んでいました。実家が津波に流されてしまったことは名残り惜しいというのはありますけど、被災地で頑張っている一員として、プレーしている姿を見せることしかできない。本当に頑張っていかないといけない。
偶然、地域の清掃活動で集まった地元の人たちからは「地域の誇りだから」「おめでとう」などと、代表選出を祝福する声が次々に挙がる。
「希望の星になれたら…」藤井さんは、故郷のためにもさらなる活躍を誓い、2020年の東京五輪出場とメダル獲得へ意欲を燃やしていた。しかし、そんな藤井さんを再び不運が襲う。
藤井さん:
最初は骨折だって思わなかった。骨折だと聞いた時、さらにオペをすると聞いた時は、よりショックでしたね。感覚が戻らなかったらどうしようとか考えました。
オリンピックまで1年半を切った2019年2月、試合中に左手を骨折し、手術することになったのだ。セッターとしては致命傷になりうる手の大けが。医療用粘土などを使い、手の感覚、握力を戻すリハビリからの再スタートだった。藤井さんはここでも、試練を乗り越えて復帰を果たし、日本代表に選出されることになった。
番組で語った東京五輪への思い
新型コロナウイルスの影響で東京五輪延期が決まっていた2020年4月、仙台放送のスポーツ番組「スポルたん!NEO」に生出演した際は、憧れ続けたオリンピックへの熱い思いを口にしていた。
藤井さん:
日本だけでなく世界が危機に直面している状況。代表合宿が始まったときは世界的にコロナがまん延していたので、練習している最中でも延期になるかなと思っていたが、何よりも人命が大切なので判断は正しかったと思う。アスリートにとっての1年はいろんな意味で重い。僕たちはバレーボールというチームスポーツをやっているので、やればやるだけ成熟度が増す。男子バレーは年々力をつけてると思うので、この1年は来年開催が予定されている東京五輪に向けてメダルを獲得できるチャンスが広がっていると思う。安倍総理(当時)は新型コロナウイルスに人類が打ち勝った証として開催したいと仰っていたので、僕らスポーツ選手に懸けられる思いというのは大きなものがあると思うので、この1年その思いを背負いながら頑張っていきたいと思います
そして2021年、悲願のメダルには届かなかったものの、藤井さんは五輪出場を果たし、故郷へ勇姿を届けた。
そして、この年の終わり。藤井さんは目の不調を感じたことがきっかけで、自らが「ステージ4の胃がん」であることを知る。
「素晴らしい戦いをありがとう」恩師が語る人柄
藤井さんは、2022年2月に自身の病状を公表した。あまりにも衝撃的な一報だった。藤井さんにショートメッセージを送ると「全力で頑張ります!!」とこちらに心配をかけないように配慮した、彼らしい返信が来た。
その後も、筆者は何度か藤井さんと連絡を取り続けた。幾度も訪れた試練を乗り越えた藤井さんだからこそ、再びコートに戻ってくることを信じていたし、乗り越えた姿を多くの人に見てもらいたかった。「取材でなくてもいい」また会えるだけで本当に良いと思っていた。しかし、病の進行は進み、2023年3月10日、藤井さんは帰らぬ人となった。
夢を託すように、活躍を見つめてきた同世代に、あまりに早く訪れた死。まだまだやりたいこと、成し遂げたかったことがたくさんあったはず。描いていたであろう未来を思うと、言葉が出なかった。
3月18日、故郷・石巻市では藤井さんのお別れの会が開かれ、筆者も参列させていただいた。
生前ゆかりのあった地元の人たちやチーム関係者など600人が駆け付けていた。 祭壇にはユニフォーム姿の遺影が飾られ、藤井さんがバレーボールに打ち込む在りし日のビデオが流され、会場にいたすべての人が藤井さんを偲んだ。
そして、高校時代の恩師・佐々木監督が、言葉を詰まらせながら、藤井さんにメッセージを送った。ここでは、佐々木さんの了承を得たうえで、その内容を紹介したい。
古川工業高時代の恩師・佐々木隆義さん:
代表関係者から、「藤井は今の全日本に欠かせない選手です。普通、全日本に入ると、練習の直前に出てきて、ネットが張っているところでアップを始めるのが普通なんですが、藤井はいち早くコートに出て自分でネットを張り、練習を始めるんです。それが全日本の若い選手たちに伝わって今の全日本の強さがあるんです。」と言われたことがあります。トスがうまいとか、トス回しがうまいとか、そんなことよりも本当に最高の褒め言葉でした。どんな時もコートでは強く、コートの外ではみんなにやさしく、指導者にとって、「こういう選手になってほしい見本」のような存在でした。だから、パリでもあのBクイックを見たかった。環境に恵まれない子供たちに、それでも頑張ればオリンピックに行けるんだ。一生懸命頑張って結果が出なくて悩み苦しんでいる中高生に、「結果を求めるのは今じゃない。今は頑張ることが大事なんだ」ということを直伸自身から伝えてほしかった。静岡よりも遠くに行ってしまいましたが、私は一生忘れることはないでしょう。
藤井直伸の人生に少しでも関われたことを誇りに思います。
また、苦しい時、心配なことがあったら、夢の中でいいから連絡をください。
素晴らしい戦いをありがとう。
親のように藤井選手を思い、導き、時には一緒に悩み、見守ってきた佐々木さんの言葉。
少しでも多くの人に、藤井さんの生き様、佐々木監督の言葉が届くことを願う。
藤井さん、ありがとう。 苦境の中でも、決して光を絶やさなかった希望の星を、私たちは忘れない。
(仙台放送 角田翔太)