福島第一原発から20キロ圏内にある福島県楢葉町。2015年に避難指示が解除され9月5日で8年となった。原発事故で町のほぼ全域に避難指示が出されたが、避難を選択せず自宅に留まり続けた女性がいる。すべては高齢の母を守るため…看取りを終えた女性がいま思うのは「生きる」ということ。
避難指示解除から8年
2021年から育ててきたイチジクを収穫していたのは、楢葉町の伊藤巨子(なおこ)さん、75歳。弟の高原哲三さん(73)と、季節の野菜や果物を育てる日々を送っている。

「あの時から比べると全然違いますね。荒地だったし、農業なんてできる状態じゃないと思ってましたけど。こういうのができるようになったし」

避難をしないという選択
震災当時、寝たきりとなっていた母・寿子さん。楢葉町は、原発事故で全域の立ち入りが制限されたが、寿子さんの体は長距離の移動や避難生活に耐えられないだろうと考え、自宅に留まり続けた。

「認知症がひどくなる前に、母は施設には行きたくないと言ってました。ここの畳の上で看取るという約束がありましたので。どういう状況が起ころうとも、約束は変えられない。残るって事に深い考えはなかった。ただここで、母を看取るってことだけで」

警察や自衛隊からの、避難の説得も振り切って。供給が絶えた水は、消防署で分けてもらって…。必死に過ごした日々は、全て母を守るための毎日だった。

震災から二度目の春に旅立つ
2012年8月10日、楢葉町の警戒区域を解除。立ち入り制限は緩和されても宿泊の規制は続いたため、夜に灯りがついていたのはこの家だけだった。

そして震災から二度目の春。母・寿子さんは、この自宅で静かに息を引き取った。
「大きな息を4回5回と吸って、すぅーっと逝きましたので。良かったと思ってます」
寿子さんが亡くなって2年半。2015年9月、楢葉町の避難指示は解除された。

必死で過ごした日々も遠く
「買い物、洗濯、そういった外回りの状況を、晋さんがしてくれたのは大きな力でしたね」
一緒に母に寄り添ってくれた、夫の晋さんも2022年に亡くなり、必死の思いで過ごした日々は遠いものとなりつつある。

「やがて私もまもなく行くよ、っていう感じで話しかけたりとか。色々あったけどこれもやっぱり人生だよねっていう話っていうんでしょうかね」

生きていくための場所と再認識
巨子さんにとって「9月5日」に特別な意味はない。でも、その後できるようになった”作物を育てること”は、”ここは生きていくための場所”だと再認識させてくれる。

「段々に放射能検査したりしている間に、あれもこれも大丈夫と発表されると、ここでも生きていけるなっていうのは、ひしひし感じています」
家族と過ごしたあの日々の記憶と、時を重ねて感じられるようになった実りの重さを感じながら。巨子さんはふるさとで暮らし続ける。

楢葉町の現状
町によると2023年7月末時点の人口は、震災前の約8割にあたる6547人で、町内に住んでいる人は4346人、町内居住率は66.38%に上っている。また、2020年度以降の移住者は181人に上る。

楢葉町は帰還した人と移住者などが交流するスペースを整備して、移住者が孤立しない環境を整えるなど移住者の呼び込みに力を入れている。
(福島テレビ)