大正12年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が首都・東京を襲った。

関東大震災。当時、東京市の5割近くが消失し、東京市内の人口220万人のうち、150万人の人が家を失った。

この記事の画像(7枚)

あれから2023年で100年。高度成長とともに首都東京は高層ビルが建ち並び、再開発が繰り返される、日々、新陳代謝が繰り返されている。

焼け野原の所々に瓦礫の山。そこからの復興はめざましいものだった。

大きな分岐点となった関東大震災

東京の街には、焼け残ったトタンなどの資材を利用したいわゆる「バラック」といわれる仮設住宅や仮設店舗が建ち始めた。

急ピッチで進められた「復興事業」により区画整理が進むと共に、大正から昭和に変わるころには東京中心部の街並みは、震災前の江戸の風情を残したものから、鉄筋コンクリート造りのビルが建ち並ぶ近代的な街並みへと変貌を遂げた。

関東大震災は建物の耐火性や耐震構造といった意識を変える大きな分岐点となった。

しかし、個人商店などは鉄筋コンクリートの建物を施工する資金はなく、都心から少し離れるとまだまだ昔ながらの木造建築が街並みの主役となっていた。

「日本の首都・東京の景観を取り戻す!」と考え出されたのが、「看板建築」と呼ばれる正面から見ると平らで、耐火性を高めるために壁面には銅板やタイルが貼られた木造建築だ。
商店などに良く使われた建築手法だった。

個性的な「看板建築」

江戸東京たてもの園の阿部由紀洋学芸員に話を聞いた。

江戸東京たてもの園 阿部由紀洋 学芸員
江戸東京たてもの園 阿部由紀洋 学芸員

江戸東京たてもの園 阿部由紀洋 学芸員:
震災からの復興にあたって考案されたいわゆる「看板建築」は木造建築の表面をトタンやタイル・モルタルなどで覆うものです。木造建築は鉄筋コンクリート建築に比べ安価ですが、火に弱いというデメリットを補うために考え出されました。

ローマ建築の柱を模したイオニア式の柱
ローマ建築の柱を模したイオニア式の柱
丸く組み合わされた木造の柱の表面にモルタル
丸く組み合わされた木造の柱の表面にモルタル

江戸東京たてもの園 阿部由紀洋 学芸員:
区画整理により短冊形の敷地が多く、間口が狭く、奥行きがあるため、直接、火や火の粉に面する箇所に耐火性の高い、銅板やタイル、モルタルなどで仕上げたのです。

正面部分(ファザード)は、施主や画家など美術家がアイデアを出し、さまざまなデザインが施されたという。

江戸東京たてもの園 阿部由紀洋 学芸員:
看板建築でもうひとつ特徴的なものは、「マンサード屋根」と呼ばれる形状の屋根です。
当時、東京市では市街地のほとんどで3階建てが禁止されていました。そのため、狭い空間を有効利用するために用いられた手法で、2階部分の上に屋根裏部屋を造りました。
隣の家と接している部分は波形の鉄板を貼るだけの簡単な仕上げですが、隣家が2階建ての場合、“3階”の外部に露出した側面部分を耐火性のもので覆っています。

「看板建築」は全国各地に拡がる

江戸東京たてもの園 阿部由紀洋 学芸員:
首都の復興には全国各地から大工職人らが集まったため、それらの人々が地元に戻り東京で学んだ「看板建築」を建設しました。
今でも多くの地域で「看板建築」が残っていて実際に生活に使われています。

今回、取材に訪れた東京・小金井市にある東京都の「江戸東京たてもの園」には、約7ヘクタールの敷地に30棟の復元建造物が保存されている。

関東大震災から100年。この間、日本は大地震をはじめとする様々な自然災害に襲われてきました。
被災地はその都度、全力で復興に向かい前進している。

耐震や防火などの建築基準が進化し、広域救助隊などの整備もされている。

焼け野原からの復興の過程で生まれた独特の建物を実際に見ながら、当時の人々の苦労と英知に思いをはせ、防災・減災をする為、自分たちに何ができるかをもう一度考えてみてはいかがだろうか。

【執筆:フジテレビ 解説委員 小泉陽一】

小泉陽一
小泉陽一

フジテレビジョン解説委員・危機管理 1991年フジテレビジョン入社。アナウンス室、ニュースキャスター、社会部、経済部、報道番組ディレクター、NY支局、パリ支局長、秘書室、WE編集長を経て現職。メディアリテラシーや時事問題を学生や地域の人々と共に考えるのが最近のライフワーク。