8月15日は78回目の「終戦の日」。終戦間近、アメリカ軍の北海道上陸に備えて、北海道の太平洋沿岸には「トーチカ」と呼ばれる陣地が造られた。現在に残る戦争の痕跡を取材した。

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道内に残る「トーチカ」を訪ねる

十勝地方の大樹町の海岸では、波打ち際にコンクリートの塊が点在している。

第二次大戦末期、アメリカ軍の上陸を水際で阻止するために旧日本軍が設置した「トーチカ」と呼ばれる防御陣地だ。

記者が取材したトーチカは、波や海風で浸食したのか、底が抜けていた。入口は人1人が入れるほどのサイズで造られていた。

「トーチカ」とはロシア語で「点」という意味で、攻撃から兵士たちが身を隠すための拠点として作られた。

内部は数人が入れるくらいの空間が広がっていて、敵を射撃するための小窓「銃眼(じゅうがん)」が設けられている。

帯広市の建築家・小野寺一彦さん(65)は、「壁の厚さは2.5メートルくらいあるかもしれない。厚い」と話す。

小野寺さんは、北海道に残るトーチカの調査を30年近く続け、存在が明らかになっていなかった13基を発見してきた。

これは、海岸から約500メートル離れた林の中に建つトーチカ。

15年前、土に埋もれていたものが発見された。

「手前にひとつ銃を構える部屋がある。その奥にもうひとつある。外見は大きいが、中は小さい。壁の厚さは2メートルくらいあり、銃眼の部分でそれが分かる」(小野寺さん)

記者が感じた「逃げ場がない恐怖」

記者が中に入ってみて、狭さに驚いた。

また、実際に攻撃されたら逃げ場がないという恐怖も感じた。

型枠の材料として使われていたのか、床には木材が残されていた。

「トーチカが使われず工事中に戦争が終わった、終戦を迎えたというのが分かる」(小野寺さん)

1943年、アメリカ軍との激しい戦いの末、アリューシャン列島アッツ島の守備隊が玉砕。

旧日本軍はこのあとアメリカ軍が北海道東部に上陸すると想定し、その備えとして太平洋沿岸にトーチカを造った。

建設は急ピッチで行われ、地元住民も動員された。

しかし物資が乏しく、コンクリートに周辺の砂利が混ぜられるなど脆弱な造りで、海上からの砲撃や空爆などに耐えられるものではなかったという。

「作業に携わった人たちがここにいて造ったという痕跡はここにある。約1年くらいの間に100人単位の人が必死になって造っていたのかなと考えると切なくなる」(小野寺さん)

過酷な作業「死に物狂いだった」

当時、水際陣地の構築に携わっていた男性を訪ねた。

別海町の上出五郎さん(98)。

終戦の1年前、18歳の時に志願兵として入隊。

現在の豊頃町や浦幌町で、敵を迎え撃つための大砲を設置する横穴を掘っていた。

「アメリカが上陸してくるだろう、それを迎え撃つということで、海岸の崖に穴を掘って大砲を据え付けて待ち構えていた」(元陸軍兵士・上出五郎さん)

作業は早朝から夜遅くまで毎日行われ過酷なものだった。

上出さんは極度の疲労と栄養失調で意識を失ったこともあったという。

「死に物狂いだった。骨に作業で使う棒が当たって、すりむけて血が出て痛くて、それでも我慢した。我慢しないと最後の勝利は得られないという気持ちはどこかにあった」(元陸軍兵士・上出五郎さん)

結局、アメリカ軍が上陸することはなく、トーチカや横穴などの水際陣地は実戦で使われることはなかった。

もし戦闘が行われていたら甚大な被害が出ていたことも予想される。

終戦を迎えた時の上出さんの胸の内を聞くと

「とんでもないショックというよりは『やっぱりか』という気持ちはあった。涙は全然出てこないし、『命助かったな』という気持ちは強くあった」(元陸軍兵士・上出五郎さん)

99基のトーチカを“歴史的証人”に

北海道での地上戦が目前に迫っていたことを現在に伝える戦争の痕跡。

道内で確認されているトーチカは99基ある。

調査を行っている建築家の小野寺さんはこうした戦争遺跡を後世に伝えようと調査内容を記録した報告書を出版した。

小野寺さんは「これは忘れてはいけないことだ。トーチカは北海道遺産に匹敵し、これだけの数が残っている。歴史的証人として次世代につなげていくことができるのではないか」と話す。

トーチカの中には浸食や風化が進んで崩れ落ちたものもある。

また、高齢化が進み、造られた当時のことを知る人も少なくなっている。

戦争を繰り返さないため、その記憶を伝える建造物を残していかなければならない。

78回目の終戦の日に、取材記者も強く感じた。

(北海道文化放送)

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