「ムツゴロウ」の愛称で親しまれた畑正憲さんが、4月5日亡くなった。テレビ西日本は2020年8月、“終戦企画”としてムツゴロウさんに取材をしていた。ムツゴロウさんが私たちに問いかけた貴重な話は、今も私たちに戦争の愚かさや平和の尊さを教えてくれている。

北海道で穏やかに時を過ごした畑さん

福岡から飛行機を乗り継ぐこと約3時間。到着したのは、広大な大地が広がる北海道・中標津町。酪農王国でもある北海道。のんびりと過ごす牛たちや天然記念物のタンチョウにも出会える。穏やかに時が過ぎていく緑あふれる場所に、その人は笑顔でいた。

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「お待ちしてました、どうもどうも、遠い所から」と優しい口調で出迎えてくれたのは、畑正憲さん(※取材当時85歳)。

2020年8月取材時、畑さんは優しいまなざしで取材班を迎えてくれた
2020年8月取材時、畑さんは優しいまなざしで取材班を迎えてくれた

以前は自ら牧場を経営するなど活発な生活を送っていたが、今は、妻の純子さん、そして犬や猫と一緒に静かに過ごしている。

「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」など世界中を飛び回って動物や自然を紹介する番組にも出演していた畑さん。当時、動物たちと全力で触れ合うその姿は、テレビの前の多くの人を魅了した。

「ムツゴロウ」さんといえば動物との触れ合い
「ムツゴロウ」さんといえば動物との触れ合い

そんな畑さんが、壮絶な戦争体験者ということはあまり知られていない。

5歳の時 満州に一家で移住

右 当時0歳の畑正憲さん
右 当時0歳の畑正憲さん

畑さんは1935年、福岡市博多区に生まれた。

畑正憲さん:
(当時は)屋根によじのぼって、屋根が割れて下におっこっちゃったりしていたらしいです(笑)。相当、わんぱくだったらしい

一家は海を越えて満州に移住 写真は父の敏雄さん

父の敏雄さんは、福岡市内の病院で代診を務める医師で、畑さんは博多で幼少期を過ごした。その後、5歳の時、父の敏雄さんが、当時の満州の大分開拓団所属の医師になることが決まり、一家は海を越えて満州に移住することになったのだ。

畑正憲さん:
普通の列車で長いことかけて満州の大陸をずーっと北まで行きました。2日ぐらいかけて奉天(※現在の「瀋陽」)まで行って、新京(※現在の「長春」)まで行って、それで、一面坡(※ハルビン東約160km地)まで行くというのは、大変だった

中国の大連から大分開拓団の集落までは、1,000km以上の道のり。福岡から東北に着くほどの距離だ。さらに、一面坡の駅から北に向かい、一家がたどり着いた場所は満州の北の果て、現在のロシアとの国境付近だった。

現在の中国とロシアの国境付近 冬は-50度に
現在の中国とロシアの国境付近 冬は-50度に

畑正憲さん:
夏の気温は、40度を超します。冬は、マイナス50度になる。全部、自分たちで耕して畑や田んぼを耕した、そういう土地だった

畑正憲さん:
1回、夜ね、そのころ、匪賊(ひぞく)って言っていたけど、今で言えばパルチザン(反乱者)のこと。とにかく撃ち合いになりましてね。全部、家の中に閉じ込められるんですよ。そうすると、掘りごたつがあって、掘りごたつの中にいるんですけど、震えが来るんですよね。ガタガタガタガタと、自分でもびっくりするくらい。ひゅひゅひゅるーと弾が来るんです。弾の音がするんです。撃たれた者もいた

畑正憲さん:
うちは医者だったから、全部、運ばれてきた。それで患者が来ると、診療室に置けないから、重症になると居間に来る。子どものいるところで、いろんなことが起きるから、生と死には触れっぱなし、それが日常になっていた

 兄の親幸さんと2人で大分・日田に移る
 兄の親幸さんと2人で大分・日田に移る

3年にもわたる満州での壮絶な生活。小学生になり家族や友だちと過ごしていた畑さんだが、小学2年生への進学を目前にした1944年3月に満州を去ることになる。兄の親幸さんが、内地(日本)の学校に進学するのを機に、父の実家がある大分・日田に兄弟だけで移ることになったのだ。

博多に向かう船で敵の潜水艦が…死の覚悟も

しかし、時は太平洋戦争の真っただ中。韓国・釜山(プサン)港から博多に向かう船で、畑さんは、さらなる戦争の恐怖を体験することになる。

韓国から博多へ向かう船で…
韓国から博多へ向かう船で…

畑正憲さん:
船員が来て、「みんな潜水艦が来ているから、敵の潜水艦だから、いつやられるかわからないから、こんなところにいちゃだめだ」って言って、みんな上がれって言って、全員、甲板に上がらされたんですよ。ばかでかい船の中に何百人も乗ってるんです。それが今度は座席争い、寄り掛かれて安心して波もよけられるような席を探すんですよ。でも、ない。寒いのなんのっちいうもんじゃないですね。本当に震えが来てね、でもお国のためだから仕方ないですね

畑正憲さん:
とにかく最後までわからなかったですよ、いつやられるかっていう覚悟はしていました。とにかく必死に耐えてたんです

死と隣り合わせの恐怖。結局、敵の潜水艦と遭遇することはなかったが、その時に目にした博多湾の景色は、今でも脳裏に鮮明に焼き付いているという。

畑正憲さん:
波が、ぱーっと静かでね、そこに島があるんですよ。それが、その島が白い砂で縁取られていて、松が生えてて。あれは目に染みましたね、それは。なんと日本は美しい国だろうと思いましたね。感激でいっぱいでしたね

「同級生、1人ぐらい帰ってきてるんじゃないか」

しかし、さらなる戦争の悲惨さを、畑さんは満州で終戦を迎えた父親たちから聞くことになる。ソ連の侵攻。それは突然だった。

畑正憲さん:
夜は寝られなかったって(言っていました)。「先生!先生!どんどんどんどん!」って扉をたたくんです。みんな乱暴されてるんです。だからその避妊のために、1日に3人も4人も、処置しなくてはいけなかったと、父は言っていました。ソ連軍も正規の軍隊ではなかった。入って来たのは囚人部隊だった、囚人を釈放して鉄砲を持たせて満州に送り込んだんです。僕は、本当に情けなくて、「この野郎」って思いますよ、話を聞くたびに

畑さんは、しばらく無言になった。その後、固く閉ざしていた口からようやく言葉を絞り出す。

跡形もない学校から拾ってきたという
跡形もない学校から拾ってきたという

畑正憲さん:
50年後、満州に住んでいたころの学校に行ったんですよ、小学校のときの。そうしたらね、学校が全然、跡形もなかった。それで壊れたレンガが山になってた。その中から拾ってきた石です

畑正憲さん:
その時の同級生が、戦後、1人ぐらい帰ってきてるんじゃないかと思って、一生懸命帰ってくる人ごとに「誰か消息を知りませんか」って聞くんですけど、だめだった…

そう言って、畑さんはゆっくりと首を横に振った。

「人類が一番やってはいけないのは戦争」

ソ連に近かった大分開拓団の集落。畑さんの家族は、敗戦前にソ連から離れた吉林省に移動していたため難を逃れたそうだ。しかし…。

畑正憲さん:
開拓団の人には、突然、ソ連軍が襲ってきたんですって。それでね、みんなで逃げたんですって。そうしたら野原でしょう、とにかく歩き疲れて、穴を掘って、そこに子どもや年寄りや病人を入れて銃殺したんです。だから僕の友達なんかも銃殺されたんじゃないかなと思うと、情けなくてね…。本当に辛いですよ、友だちがひとりもいないんですもん、そのころのね

人にも動物にも優しい笑顔で接する畑さんが、胸の奥にしまい込んできた「暗い記憶」。自らの体験を振り返りながら、今を生きる私たちに静かに訴えかける。

畑正憲さん:
今、ああいう経験をする人はいないでしょ。あの地獄のようなね。戦争というのは、人間の倫理観や感情、そういうものを全部押しつぶす、ぶった切って、あんな無残なものはないですね。人類がやっていけないのは、一番やってはいけないのは戦争。戦争だけはどんなことがあっても阻止しないと

そう語った畑さんは、遠くを見つめた。そこに、まるでかつての友だちがいるかのように…。

(テレビ西日本)

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