藤井聡太六冠が七つ目のタイトルを目指す「名人戦」。その七番勝負の第1局が5日始まった。名人戦は2日制で、6日に勝敗が決する。

「名人」のタイトルは、藤井六冠が小学4年生の時の文集で、「名人をこす」と大きな文字で書いたほど特別な夢。

棋士にとって「名人」のタイトルが意味するものや、今回で“第81期”となる名人戦が持つ特別感、さらに藤井六冠の強さの秘訣などについて、将棋ライターの松本博文さんに聞いた。

今年は縁起の良い「盤寿の名人」

ーー「名人」というタイトルの重みは?
将棋界において「名人」とは、江戸時代以来、同時代にただ一人、“時代の最強者”のみ名乗ることが許される、特別な称号です。

将棋ライター・松本博文さん
将棋ライター・松本博文さん
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“勝敗によって名人位を競う”近代的な名人戦のシステムは、戦前の1935年に始まりました。以来、名人と挑戦者が対戦する七番勝負では、数々のドラマが生まれてきました。

名人戦は今年でちょうど「81期」を迎えます。将棋の盤面は「9×9」で「81」マスあります。ですので「81」という数字は、将棋界においては特別に縁起の良い数字です。

81歳まで長生きすることを、将棋界では「盤寿」と呼びます。今年は「盤寿の名人戦」という言い方もされています。

その節目の「81期」に、現代将棋界をずっとリードしてきた渡辺明名人と、将棋史上、もしかしたら最強の棋士かもしれない藤井聡太六冠が対決するということで、非常に運命的なものを感じます。

「名人戦」第1局(ホテル椿山荘東京)
「名人戦」第1局(ホテル椿山荘東京)

ーー「名人」は全ての棋士が目指すもの?
もちろん多くの棋士が、名人になることを目標としているでしょう。

「名人」は将棋の強い人の“代名詞”であり、将棋に携わる人すべてが憧れ、尊敬の対象とする、特別な称号です。

8つのタイトルはもちろんどれも価値があります。その中で「名人戦」は最も歴史が長く、伝統があります。

「名人」になるのは、とてつもなく難しいのが現実です。名人戦がはじまって以来、実際に名人になった人は数えるほどしかいません。名人戦の舞台にまでたどりつけるのも、ほんの一握りの、トップクラスの棋士だけです。

56勝5敗、勝率9割超の順位戦

将棋界には「順位戦」というシステムが存在する。

名人1人をピラミッドの頂点として、その下には「A級」「B級1組」「B級2組」「C級1組」「C級2組」という5つのクラスが置かれており、1年をかけて長丁場のリーグ戦がおこなわれ、狭い昇級枠をめぐって、熾烈な争いが繰り広げられる。

新人の四段はまず「C級2組」に所属し、ステップアップを目指す。トップの「A級」は定員わずか10人。そこに入ると八段に昇段し、一流棋士と見なされる。

さらにこの「A級」内において、総当りのリーグ戦で優勝しなければ「名人」への挑戦権は得られない。

藤井六冠も「C級2組」からスタートして「A級」にたどり着き、そして「A級」で勝ち抜いて「名人」への挑戦権を獲得している。

ーー「名人戦」の挑戦権を得るのは難しい?
普通であれば、名人挑戦者になるだけでも大変です。しかし藤井六冠はデビュー以来56勝5敗、勝率9割を超えるとんでもない成績で順位戦を駆け抜けました。こ

れだけの成績で名人挑戦にまでたどりついた棋士は、藤井さん以外にいません。そしておそらくはこの先も、そんな棋士は現れてこないと思われます。

名人戦は、勢いある実力十分の棋士が、時代を代表する名人に挑んでいくというのが基本的な構図です。

渡辺明名人も、将棋史に名を刻む大棋士です。さすがの藤井六冠でも、そう簡単に勝てる相手ではありません。

現在までの対戦成績では、渡辺名人は藤井六冠にだいぶ押されています。今期の名人戦は、藤井六冠が制するのではないかと見ている人が多いでしょう。

しかし渡辺名人は、藤井六冠以外の年下の棋士にはタイトル戦で負けたことがありません。

渡辺明名人
渡辺明名人

大棋士同士の名人戦では、年長者の方が巻き返す場面も見られてきました。なので、渡辺名人の防衛も相当あるでしょう。

名人位を5期獲得すると、江戸時代から続く「永世名人」の資格を得ます。谷川十七世名人以後は、森内俊之九段(十八世名人)、羽生九段(十九世名人)と2人の資格者が続きます。その次の二十世名人に近いのは、これまで名人位を3期獲得している渡辺名人です。しかし今期、もし藤井名人誕生となれば、藤井二十世名人となる可能性も出てきそうです。

いずれにせよ今期は、伝統の名人戦らしい、名局が見られると思います。

ーー「名人」を制したら『藤井時代』と言える?

藤井さんは、8タイトルのうち、すでに6つ制しているので、すでに「藤井時代」と言っても過言ではないと思います。しかし「名人」のタイトルはやはり特別なものです。これを加えれば完全に『藤井無敵時代』と言ってもいいと思います。

藤井さんが勝つといろいろな記録が塗り替わります。

これまで七冠を達成したのは、羽生善治現九段ただ一人でした。当時、羽生七冠は25歳。もし藤井七冠となれば、その最年少記録も更新します。

また、史上最年少21歳で名人位を獲得したのは、谷川浩司現十七世名人でした。もし20歳の藤井名人誕生となれば、その記録を40年ぶりに塗り替えることになります。

6年連続で「勝率8割以上」の脅威

タイトル戦にこれまで13回登場し、一度も負けたことがないという藤井六冠。

強さを示す数々のデータの中には、6年連続で「勝率8割以上」という驚きの数字もあるが、松本氏は“作戦家”の渡辺名人との対局には接戦を期待すると話す。

ーー渡辺名人とは「16勝3敗」で藤井さんがリードしているが?
渡辺名人がだいぶ押されているのは、藤井さんが「強すぎるから」としか言いようがないです。

今の勢いでいくと、藤井さんが圧倒して名人を取ってしまう可能性もあるかもしれません。

ただしこれまでの両者の対局を一局一局を振り返ってみれば、最後までどちらが勝ってもおかしくなかったという、際どい内容がほとんどです。
結果的には藤井さんが勝っていることが多いのですが、今期名人戦では、これまでと逆の目が出ても、まったくおかしくはないと思います。

渡辺名人は優れた“作戦家”です。今期の名人戦もまた、どういった戦法で藤井六冠の挑戦を受けるのかが注目されています。作戦がうまくいけばスコアも接戦となり、防衛の可能性も出てくるのではないでしょうか。

ーー藤井さんは「タイトル戦負けなし」といったデータもあるが?
タイトル戦にこれまで13回登場して、初登場以来一度も負けたことがないという棋士も、今までいませんでした。

七番勝負では、2敗までしかしたことがなくて、フルセットにすらもつれ込んだことがない。

他にも藤井さんの強さを示すデータとしては、6年連続で「勝率8割以上」という信じられない数字があります。

将棋界において「勝率8割以上」は、のちに一流棋士となるような「これから上がっていく若手」が、まだ下位クラスにいるときに、対戦相手と実力のギャップが生じていることによって、ごくまれに達成できる数字です。

トップクラスにまで上がってしまうと、対戦する相手もみんな強い。そこで年間勝率6割をキープできれば好調で、7割ならば絶好調と言っていいでしょう。しかし藤井六冠は対戦相手がみなトップクラスなのに、ずっと勝率8割台を維持している。これまでの将棋界の常識では考えられないことです。

また藤井六冠の先手番の勝率は圧倒的で、最近ではほとんど負けていません。将棋では一手先に指す「先手番」が有利とはいえ、統計上では勝率52~3%ぐらい。藤井六冠は、その先手のわずかなリードをキープして、ほとんど勝ちにまで結びつけられるほどに強いというわけです。

タイトル戦では、一局ごとに先手と後手が入れ替わります。今回の名人戦でも、無敵とも言える先手番の藤井六冠を、渡辺名人がどう迎え撃つかが注目です。