いわゆる袴田事件は裁判をやり直すかどうか、3月13日に東京高裁で判断が示される。「支援を途切れさせない」「多くの人に知ってほしい」2つの思いを胸に、30年にわたり元被告と姉の支援を続ける男性がいる。
時が止まった場所

静岡県静岡市清水区。東海道線の線路沿いに残る建物。
「全然変わらない感じしますね。そのまま残っていますから」線路の反対側にある建物を見つめ、こう話す1人の男性。袴田事件の支援を続ける清水袴田救援会・山崎俊樹事務局長(69)だ。

山崎俊樹さんは、袴田事件の支援を始めて30年。事件を知ろうとする人を案内するため、事件現場には何度も足を運んでいる。

清水袴田救援会・山崎 俊樹 事務局長:
時が止まって、事件はここで起きたということを、今でも我々に見せつけてくれる。そういう場所だと思います
冤罪事件の支援から

1966年、当時の清水市でみそ会社の一家4人が殺害されたいわゆる袴田事件。
従業員だった袴田巖元被告が、死刑判決を受けたが無実を訴え、裁判のやり直しを求め続けてきた。

山崎さんがこの事件のことを知ったのは1990年頃。
のちに死刑冤罪事件となった島田事件に関わっていたときだった。島田事件は袴田事件が起きる12年前、1954年に発生した6歳の女の子の誘拐殺人事件だ。
死刑が確定していた被告人は、1989年に無罪を勝ち取った。

袴田元被告の姉・ひで子さんは、その時自宅で涙を流していた。

清水袴田救援会・山崎 俊樹 事務局長:
島田事件から袴田事件につながってきた。調べていくと「こんなひどいことがある」ということがわかったんですね。それはある意味、島田事件以上にショックでした
支援者がいたからこそ

そのころ、浜松市から東京拘置所に毎月出掛け、面会や差し入れをしていた姉・ひで子さん。
弟が面会を拒否し、「行っても会えない」ことが数年続いていたが、山崎さんは毎回のように交通費は自腹で、拘置所へ付き添っていた。

清水袴田救援会・山崎 俊樹 事務局長:
ひで子さんはそんなに落ち込むことではなくて、「またか」という感じでした。それは本当に強いと思いますね。僕自身はひで子さんがいたから一緒にやれてたのかなという思いはあります。それはひで子さん自身もそういう思いは多少あるんじゃないかな

袴田元被告の姉・ひで子さん:
大変ありがたいですよ。支援者がいたからこそ私も頑張れていた。山崎さんはただの支援じゃなくて、裁判に直接かかわるようなことをしてくれている。みそ漬け実験をやったりね。なかなか支援者って言ってもそうはいかんのよ。だから山崎さんや楳田さんには一目も二目も置いてるよ、私は
争点となった「血痕の色の変化」

東京高裁での差し戻し審では、みそに漬かった犯行着衣の血痕の色の変化が争点となっている。

そのきっかけとなったのが、弁護団による「みそ漬け実験」だ。山崎さんは港湾関係の仕事をしながら、2000年頃から中心となって血の付いた布をみそに漬ける実験を繰り返し行ってきた。

清水袴田救援会・山崎 俊樹 事務局長:
シャツの色が白く残るようなものだったら、20~30分で出来るのではないかということが、実験のスタートのきっかけですね。どんな人でも納得できると思うんですよ。みその中に衣類が浸かれば、まっ茶色に染まるし、血液が黒くなるって。誰が見てもおかしいってわかりますから、裁判ってある意味、そういうわかりやすい証拠で判断をしてもらいたいですね
再審の行方、57年目の判断は

まもなく示されようとしている、高裁の判断に山崎さんは期待を寄せている。事件から57年、支援を始めて30年。支援者にとっても、長い年月だ。

清水袴田救援会・山崎 俊樹 事務局長:
よく聞かれるんですけど一つは、支援が途切れたら、死刑というのは執行されるんですよ。確実に。だから支援し続けないと袴田さんが殺されるという危険性があるということですね。もう一点は、ここまでひどい事件が現実にあるということを知らせていかなければいけないと。自分の一生がここまで変わってきたような事件ですね。再審開始決定しかないと思っています

高裁の判断は支援者にとっても待ち続けた大きな大きな節目だ。
「市民も冤罪と無縁ではなく、いつ、どこで巻き込まれるかわからない」そのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと話す山崎さん。未来の活動について聞いてみた。

清水袴田救援会・山崎 俊樹 事務局長:
夢物語かもしれないですが、袴田事件を中心とした冤罪博物館のようなものをどこかに作れればいいと思います

事件から57年。3月13日、東京高裁で判断が示される。
(テレビ静岡)