9月27日は安倍晋三元首相の国葬の実施日である。

岸田首相が国葬の実施を表明した当初は、銃撃事件の衝撃がまだ生々しく残っていたためか、それほど強い反対も出なかったように見えた。だが衝撃が薄れるとともに、山上容疑者の暗殺動機となった旧統一教会と安倍氏との接点、さらに多くの自民党議員との関係が明らかになるにつれ、国葬反対の声は日を追うごとに増大、国論を二分する状態に陥り、岸田政権の支持率にも影響を与えるようになった。

式典そのものは粛々と執り行われるだろうし、そうあるべきで、野党の対応に眉を顰める人も多いだろう。だがその一方で、評者はなんとなく岸田首相の国葬表明に拙速を感じてしまうのである。もう少し時間をおいて、旧統一教会と自民党の関連を見極めれば、おそらく国葬という言葉は出てこなかっただろう。拙速なるがゆえに、一方で旧統一教会の対応に追われ、そんな中で旧統一教会との関係のあった安倍氏の国葬を執り行うというチグハグなことになってしまうのである。正直なところ、国葬決定によって清和研(安倍派)を懐柔し、政権運営に資しそうという考えが、岸田総理の頭の中に全くなかったとは言えないだろう。ハト派の岸田首相(宏池会)とタカ派の清和研(安倍派)とは政策的にしっくりこないところがあるのである。

また、安倍氏が国葬にふさわしい政治家だったかも、すぐに答えは出ないだろう。あるいは歴史家の領分かもしれない。

しかしあえて言えば、確かに安倍氏は首相在任期間7年8カ月で歴代トップだが、例えば歴代3位にしてノーベル平和賞受賞者の佐藤栄作氏や、皇族以外で戦後2人目となる大勲位菊花大綬章を生前に受章した中曽根康弘氏、あるいは奇しくも安倍氏と同じ参議院選挙で、過酷な応援演説がたたって選挙期間中に病院に運ばれ、現職総理のまま帰らぬ人となった大平正芳氏はいずれも国葬ではない。ワンランク下がる「国民葬」ならこれほどまで揉めることはなかっただろう。「国民葬」も国費が使われるが、そうなれば佐藤栄作氏以来となる。今回決定した国葬となれば、戦後初めて生前に大勲位菊花大綬章を受けた吉田茂氏以来のことである。

そこで今回の書評は、その吉田氏の回想録『回想十年 新書版』(吉田茂 著・毎日ワンズ)を取り上げようと思う。

吉田茂元首相の国葬(1967年)
吉田茂元首相の国葬(1967年)
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この毎日ワンズという出版社はなかなか個性的な出版社で、以前この書評で紹介した『明治維新の研究』(津田左右吉 著)もこの出版社であった。いずれも復刻版だが、日本の近現代史にかかわる重要な書籍を軽便な装丁で出版してくれるので、とてもありがたい存在だ。

「浪々の身の上」の吉田氏

さて、吉田氏は首相就任当時、かなり国民的人気が高かったようだ。

それは外交官出身の吉田氏が、その英米流自由主義の立場から、戦前には日米開戦回避に動き、また戦中は和平に向けて様々な工作を行っていたからである。当然、東条英機大将率いる軍部は吉田氏に目を光らせた。実際に敗戦色が濃厚になった昭和20年4月に、憲兵隊は吉田氏を連行、拘束した。そして40日後に不起訴となり釈放される。

不起訴になったのは旧知の阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣の意向が強く働いたようだ。この人は終戦時に「一死以て大罪を謝し奉る」という遺書を残し、現職の陸軍大臣のまま割腹自殺を遂げた。これは『日本のいちばん長い日 決定版』(半藤一利 著・文春文庫)のクライマックスの一つとなっている。一身に敗戦の罪を背負うことによって陸軍のクーデター、暴発が抑えられたのである。

さて、一方の吉田氏は拘束中、空襲にあって都内各所を憲兵の案内で逃げ回ったりして大変な目に遭ったらしい。戦後になってそういった事実が公にされ、空襲、あるいは軍部の憲兵隊監視体制に嫌気がさしていた国民は、権力中枢内で、ひそかに開戦回避や終戦工作に動いていた吉田に拍手喝采し、その内閣を強く支持したのだろう。

また吉田氏はこうも書いている。

「私は昭和十四年三月、駐英大使を最後に外務省を退き、終戦後の東久邇(ひがしくに)内閣の外務大臣に就任するまでの約六年半の間はまったく浪々の身の上で、他人から見れば、いわゆる悠々自適の境涯にいたわけである」

つまり、政府の役職についていなかったために、却って自由に動ける環境にあったのだろう。しかし開戦回避工作はうまくいかなかった。また和平工作にも失敗した。

「私はそれまで密かに、『近衛公(評者注:近衛文麿元首相)をスイスに派遣し、和平工作を進めてみればどうか』と、私だけで考えていたのだが、木戸侯爵(評注:木戸幸一内府…内大臣 天皇を輔弼する職)の意向を伝え聞いて、私の案もあながち実現性がないでもないと、若干自信をもつことができた」

そこで近衛公にそのプランを打ち明けると、驚いた様子だったが、「公は『木戸内府にも話してみてくれ』と多少気動きが見えた」そうだ。木戸内府を通して直接天皇の耳にその計画を伝え、諒解を得ようということなのだろう。

しかし、その計画は天皇には伝わらなかった。「『東条(評注:東条英機)総理大臣が《近衛公を取り締まる必要がある》とかねがね監視している』という話を伝え聞いていたので、内府もその際若干躊躇されたものと察した」というのだ。つまり、木戸内府の段階で握り潰されてしまったのである。

一方で、吉田氏自身が和平交渉役を働きかけられたこともあった。外務省の先輩から自宅に呼び出された時のことについて、次のように記している。

「『今、海軍部内でイギリスを通じて和平交渉を進めることを計画しているが、これにあたるのには、君をおいてほかにない。早いほうがいいと思うが、どうだ』という。翁は時折、夢のようなことを考える人であった。
私は『四面敵に囲まれているのに、どうして国を出るか』と問うと、『潜水艦で行けばいい』という。
『潜水艦もいいが、油の補給など、どこでどうしてやるのか』とさらに聞き返すと、『万事は軍令部の小沢(*治三郎)が心得ているはずだから、詳しいことは小沢に聞け。途中で死んだっていいじゃないか』という。ずいぶん乱暴な話だ」

おそらく吉田氏の元駐英大使の経歴に願をかけたのだろう。

ところが、さっそく小沢軍令部次長を訪ねてみたものの、「そんな計画はない」と相手はにべもない。そして吉田氏が憲兵隊に連行されたのは、その翌日のことだった。

このように吉田氏の和平工作は実を結ばなかったが、その後、海軍出身の鈴木貫太郎首相が御前会議で昭和天皇の聖断を仰ぎ、ようやく日本は終戦に持ち込むことができたのだった。

戦後の活躍ぶり

戦後になると、吉田茂氏は無役で浪々の身から一転、解き放たれたような大活躍を見せる。

東久邇内閣の外務大臣に指名され、GHQ(連合国総司令部)との折衝に当たることになる。GHQは日本国内にあって超法規的存在で、相当な力業を行使して日本の民主化に向かって、拍車をかけていた。

吉田氏はGHQのマッカーサー総司令官と、かなり気脈が通じ合ったようである。

マッカーサー総司令官は、日本とは40年来の因縁があり、古くからかなり日本の事情に通じていたようだとし、彼が吉田氏に向かって言った次の言葉を引用している。

「『爺さん、婆さん、娘に至るまで、毎日早朝から夜遅くまで、田畑に働きに出ている。こんな勤勉な国民が世界のどこにいるだろうか。日本人は種々の発明などから見たって、決して世界のどの民族にも劣っていない』」

また、ソ連が北海道に占領部隊として進駐することを求めてきた際に、ただちに「峻拒(しゅんきょ)」したことを取り上げている。

「もし、ソ連の希望通り北海道にソ連軍が入っていたら、今日の北海道は東ドイツや北朝鮮のようになっていたことは疑う余地はない」

マッカーサー元帥の「勘」と「断」に感謝すべきだとしている。

また吉田氏は英国流の貴族趣味で、葉巻をこよなく愛した人であった。しかしかなりの癇癪もちで、ワンマン宰相と呼ばれ、首相になってからも「バカヤロー解散」などその種のエピソードには事欠かなかった。どこか憎めないところがある政治家だった。

だが、こんな吉田首相もいつかは政治の表舞台から去る時がくる。

国民の支持を失ったきっかけは、いわゆる「造船疑獄」の対応だった。吉田総理は犬養健法務大臣に指示して検察に対し「指揮権を発動」させたのである。

犬養健法相
犬養健法相

「私はこの事件の全体については未だによく知らない。しかし、私が佐藤幹事長(評注:後の佐藤栄作首相)の関係で知りえた限りでは、政治資金規正法の点はともかくも、逮捕収監が必要だとする検察当局の説明には、何とも承服できなかった」

そして国会の議事が重要局面を迎えているという理由で、国会会期満了まで佐藤幹事長の逮捕を見合わせるよう検事総長に指示したのである。

「ところがこれが『指揮権発動』と呼ばれて非難の的となった」

しかし、これは苦しい弁明に見える。検察に対して「国会の都合」で、一時的とはいえ逮捕を見合わせろというのは、かなり独善的である。独任制官庁とはいえ、検察官もまた官僚である。最高権力者の総理大臣から「逮捕を見合わせろ」という指示が出されれば、その後の捜査に影響を与える。結局、佐藤幹事長は逮捕を免れた。

ここで、安倍元首相が官邸寄りとされた定年間近の黒川弘務東京高検検事長を検事総長にするために、検察庁法を改正して彼の定年延長をもくろんだことが思い出される。これが他の官庁の事務次官の人事なら、それほど大きな騒ぎにはならなかったろう。正義を実現する検察庁だからこそ、国民はツイッターなどで「NO」を突き付けたのである。

ともに国葬となった2人の元首相は、同じように検察の扱いを誤って、晩節をけがした。長期政権にとって、検察はさまざまな意味で鬼門なのである。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『回想十年 新書版』(吉田茂 著・毎日ワンズ)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)