「司法の政治化」という壁

日韓間の最大の懸案となっている、いわゆる元徴用工の訴訟問題をめぐり、韓国政府の動きが活発化している。8月中旬から9月にかけて懸念されていた日本企業の資産現金化の動きは、当面、先送りされる見通しとなり、日韓両政府は束の間の猶予期間を手にした形だ。2018年秋に韓国最高裁が日本企業に賠償を命じる判決を出してから4年。現金化という「時限爆弾」を抱えた中で、解決の糸口は見い出せるのか。

現在進められている「現金化」の手続きのうち、最も早く資産売却のタイミングを迎えるのは三菱重工業だ。韓国地裁は2021年9月に原告が差し押さえた特許権や商標権を売却するよう同社に命じ、同社は2022年4月に最高裁に再抗告していた。韓国の「審理不続行制度」では、4カ月以内であれば審議なしで事件を棄却できる。このため、最高裁が再抗告を棄却すれば、8月半ばにも現金化の決定が下されるとの見方が出ていた。しかし、これは見送られた。

次は、日本企業の資産売却訴訟で主審を勤めてきた韓国最高裁判所のキム・ジェヒョン判事の退任というタイミングが取り沙汰されたが、キム判事は最終判断を下すことなく、9月2日に退任した。

退任式に臨むキム・ジェヒョン最高裁判事(韓国MBC「ニュースデスク」より)
退任式に臨むキム・ジェヒョン最高裁判事(韓国MBC「ニュースデスク」より)
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退任式でキム・ジェヒョン判事は次のように挨拶した。

「立法や政治の領域で解決することが望ましい事案なのに、裁判所の門を叩くケースが多くなっている」

「立法府で解決しなければならないすべての問題を司法府が乗り出して解決しようとしてはいけない。そうすることもできない」

元徴用工問題など日韓間の懸案が政治的に解決できないまま、司法に解決をゆだねる「政治の司法化」の現状に、苦言を呈したともとれる。

キム判事は政治理念の対立が司法の場に持ち込まれることにも懸念を表明した。

「私は進歩(革新)でも保守でもない。裁判官を保守あるいは進歩に分類し、どちらか一方に閉じ込めようとすることは望ましくない」

「政治の司法化」を日韓関係の前面に押し出したのが、文在寅(ムン・ジェイン)前大統領だ。

韓国・文在寅前大統領
韓国・文在寅前大統領

最高裁の判決について、日本側は1965年の日韓請求権協定で解決済みと一蹴、日韓関係の根幹を揺るがすとして猛反発した。しかし、文氏は「司法判断を尊重する」というだけで、徴用工問題の解決に向けて積極的に動こうとはしなかった。

司法に責任を丸投げし、政治的解決を放棄した状態が続いたことで、日韓両政府の信頼関係は壊滅的な打撃を受けたと言わざるを得ない。日本側は文氏の対応に不信感を募らせ、文政権の間、日韓関係は修復の糸口をつかむことさえ困難な状況が続いた。

尹大統領の「本気度」

5月に就任した尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は文氏とは対照的に、日韓関係改善をめざす発言を繰り返している。

光復節(8月15日)の記念式典で演説する尹錫悦大統領(韓国大統領府HPより)
光復節(8月15日)の記念式典で演説する尹錫悦大統領(韓国大統領府HPより)

8月15日の演説では、日本について「今や世界市民の自由を脅かす挑戦に立ち向かい、共に力を合わせていかなければならない隣国」と位置づけた。そのうえで、日韓関係を「急速に回復・発展させる」と宣言した。

また「韓日関係が普遍的価値を基盤に両国の未来と時代的使命に向かって進む時、歴史問題もきちんと解決される」と述べ、直接言及はしなかったものの元徴用工問題の解決にも意欲をにじませた。

就任100日の記者会見でも「(日韓の)歴史問題もやはり私が常に強調してきた普遍的価値と規範を原則に置いて未来志向的に解決していきます」と語った。

韓国外務省は7月26日、三菱重工に対する資産現金化命令を審理中の最高裁に意見書を提出した。韓国政府が「合理的な解決策を模索するため、対日外交協議を続けており、官民協議会などを通じて、原告側をはじめとする国内各界各層の意見を収集するなど多角的な外交努力を傾けている」とする内容で、現金化の最終決断に待ったをかけた。

尹大統領の強い意向を受けたものであり、最高裁が早期の現金化決定を見送ったのも、こうした政府の立場を無視できなかったからといってよい。

韓国外務省は元徴用工訴訟問題を解決するため官民協議会を設置し、原告側や専門家から意見を聴取してきた。朴振(パク・チン)外相が原告の自宅を訪れ、直接話を聞くなど原告や遺族らの説得を試みている。

元徴用工訴訟の原告の自宅を訪問した朴振外相(韓国MBC「ニュースデスク」より)
元徴用工訴訟の原告の自宅を訪問した朴振外相(韓国MBC「ニュースデスク」より)

ただ、原告側は日本政府からの謝罪を求めるなど隔たりは依然大きい。官民協議会への出席を拒んだり、意見書の撤回を求めるなど反発も続いた。韓国政府は日本企業の賠償金を税金で肩代わりする「代位弁済」などの方法を検討してきたが、官民協議会では反対意見が多数を占めた。

協議会は5日、4回目の開催で終了した。今後、韓国政府が解決策の取りまとめに入ることになるが、難航は必至だ。

関係改善への第一歩を

日韓関係が悪化した原因について、日本では「韓国政府の対応に問題がある」と考える人が多い。

事実、文政権時代には「慰安婦合意破棄」「自衛隊機へのレーダー照射」「軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄通告」などの出来事が相次ぎ、国民感情を悪化させた。

このため、韓国に対して柔軟姿勢を示せば、世論の厳しい批判を受ける状況は今も変わっていないようだ。

しかし、政治家が世論ばかりに気を取られて、日韓関係改善に向けた対応を一切取らないとすれば、国益を損なうことにならないだろうか。

北朝鮮の核・ミサイル開発、台湾海峡をめぐる緊張、尖閣諸島をめぐる問題、経済安全保障――日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増す一方で、こうした状況を乗り切るためにも韓国との関係改善は不可欠といえる。

岸田首相を表敬した韓国の朴振外相(7月19日)韓国外務省提供
岸田首相を表敬した韓国の朴振外相(7月19日)韓国外務省提供

日本側も原則論だけにとらわれず、知恵を絞って韓国側に向き合うタイミングが来ている。韓国の金聖翰(キム・ソンハン)国家安保室長は「これから1~2カ月集中的に努力して解決策を導き出せるのではないかと期待している」と述べた。

次の焦点となるのは、9月の国連総会で日韓首脳会談が開催できるかだ。日韓両首脳がこの機を逃さず、関係改善への第一歩を踏み出すことを望みたい。

【執筆:フジテレビ客員解説委員 鴨下ひろみ】