長崎の原爆死没者のうち、身元不明の無縁遺骨は、長崎市の平和公園の横にある追悼祈念堂に安置されている。現在8,964人の遺骨があり、そのうち名前がわかっているのは122人だ。
実はここ以外にもう1カ所、独自に無縁遺骨を弔っている寺がある。遺骨を集めた背景と、今につなぐその思いに迫る。

法要800回超…1万体以上の無縁遺骨を弔い続ける寺

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その数800回以上。東本願寺長崎教会は、毎月9日に法要を営み続けている。石碑の下に眠る原爆死没者を弔うためだ。

東本願寺 長崎教会 駐在教導・中川唯真さん:
原爆投下から時間が経っていくにつれて、風化というのがあった。その課題を自分と社会に問うていくという願いの下、あえて石碑にして前に出した。

1945年8月9日、長崎に投下された一発の原子爆弾により、街は焼き払われ焦土と化した。約7万4,000人の命が奪われた。

当時、街中にはどうすることもできない無数の遺体が放置されていた。

終戦の2カ月後、アメリカは、爆心地周辺に簡易の飛行場・通称「アトミックフィールド」の建設を始めた。

アメリカ軍の関係者は、原爆犠牲者の遺体が残る場所を、重機で整地したのだ。

あまりに痛ましい光景を目の当たりにした東本願寺の僧侶や門徒は、いてもたってもいられなくなり、焼け野原を駆け巡って必死の思いで遺骨を集めた。
当時の遺骨は、今は石碑の下の部屋に納められている。

東本願寺 長崎教会 駐在教導・中川唯真さん:
原爆で亡くなった、身元の分からない1万体とも2万体ともいわれる遺骨が納められている。遺骨の収集をした方々が、できる限りのもので、お骨を集めて火葬したものになる。いろんな方々のものが入っているので、小さなものがたくさんある

東本願寺は被爆当時、爆心地から約2kmの西坂町にあり、大きな損傷を受けたため、遺骨を市内の寺に移すなどして保管した。

市民から持ち寄られるものもあり、いつしかその数は1万体分を超えていた。

1953年(昭和28年)、長崎市から遺骨の返還を提案されたが東本願寺はそれを断り、自分たちで弔い続ける道を選んだ。

東本願寺 長崎教会 駐在教導・中川唯真さん:
拾い集めただけではなく、他の所からも、ここだったら大事にしてもらえるという願いを受けて、責任を持って預かってお参りしてきたわけだから、このまま私たちで大事にしていこうという話し合いが行われたと聞いている。
御遺骨が叫んでいる課題というか、そういったものを次の方々に引き継いでいかないといけないし、関わっているものの大事な役目なのかなと思う

77年前に水をあげられなくてごめんなさい…

この10年、毎月9日の法要に参列している人がいる。
爆心地から約2kmの御船蔵町の自宅で被爆した、森田博滿さんだ。

東本願寺に通い続ける理由は、自身の被爆体験にある。

被爆者・森田博滿さん:
ここに100から120~130人の方が来ていたんじゃないかと思う。「水を下さい、水を下さい」と言われる。「水、水、水…」というのが今でも耳にこびりついている。水をやれなかったのが残念でならなかったよ。本当にごめんなさい。もうあれから77年経ったよ

森田さんは当時、長崎駅前で多くの人が荼毘にふされるのを見た。あの人たちの遺骨がその後どうなったのか…ずっと気になっていた。

それから約70年、森田さんは77歳の時、長崎平和推進協会の「碑めぐり」で初めて東本願寺を訪れた。そこで、かつての記憶と遺骨が結びついた。その時から法要への参列を続けている。

被爆者・森田博滿さん:
こんなにして亡くなっていってかわいそうに。もう自分がこんな姿になったのだから「平和になって下さい」ということを願いたいんじゃないかな、ご遺骨は。そうとしか考えられない。原爆の犠牲になられた方だから。だから私達は声を大にして核廃絶を唱えている。平和のバトンタッチするから、安らかに眠って下さいよ

被爆後、東本願寺の僧侶や門徒が集め、安置してきた無縁遺骨の弔いは77年経った今も続けられている。

そして2022年8月9日、長崎原爆の日に行われた非核非戦の法要。多くの僧侶が無縁遺骨にお経をあげ、高校生平和大使、そしてそのOB、OGも参列した。

東本願寺長崎教会では事前に電話を入れてもらえれば、原爆死没者の遺骨のお参りを個人、団体問わず受け入れている。

朽ちることなく眠りにつく遺骨は、原爆の悲惨さから目を背けてはいけないと私たちに訴えかけている。

(テレビ長崎)

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