福井市中心部を焼け野原にした福井空襲から、2022年で77年。記憶が残る体験者は80代後半と高齢化しており、体験談は貴重な歴史の証言だ。11歳で空襲を経験し、川の中で爆撃が終わるよう祈り続けた男性に話を聞いた。
「地獄やな、怖いだけ」 11歳で経験した空襲
福井市旭地区に住む横田幸治さん(88)。

横田幸治さん:
電柱に焼夷弾が落ちて、目の前で火が上がった。近くの家の人たちが出て消していた
横田さんは、77年前の福井空襲の記憶を今も鮮明に覚えている。当時、旭国民学校・初等科の6年生、11歳だった。

「地獄やな、怖いだけ」。空襲をそう振り返る。

1945年7月19日午後11時ごろ、横田さんは、空襲の警戒警報で目が覚めた。7歳の時に戦争が始まり、高学年になる頃には、全国の都市が空襲を受け始めた。

福井市内でも警戒警報が増加した。ただこの日は、さらに不気味なサイレンが鳴り響いた。
横田幸治さん:
たいがい警戒警報が出ると、「ただし福井県を除く」というのが多かった。ただこの日は、空襲警報が出た途端に南から来た

上空に現れたのは全長30メートル・幅40メートルの、アメリカ軍の大型爆撃機「B29」だ。その数127機。福井市中心部の95%以上を焼け野原にする、81分間の爆撃が始まった。
兄と逃げ込んだ川は…「全部燃えていた」

横田幸治さん:
焼夷弾が落ちて、ばっと火があがって。(逃げていた同級生に)油がかかり、その子はこちらに戻ってきた。兄貴が掘った穴の水につけて、火は消えた

焼夷弾とは、中にゼリー状のガソリンが詰め込まれた爆弾だ。木造の日本家屋を“効率よく”焼き払うため、可燃物質をまき散らしながら、燃え続ける。
横田さんは兄に連れられ、近くの川へと逃げ込んだ。しかし、すぐに川の異変に気が付いた。

横田幸治さん:
全部火で燃えてるんだから、川がね。油が水の上に浮かぶから、全部火がついて。頭上を守るために持ってきた布団が燃えていたが、兄が川から顔を出して消していた。私はただ入っていただけやけど。助けを求める人が流れてきて、「助けてくれー!!」という声が聞こえた

川の中に身を潜めること1時間半。爆撃音が静まったため、ゆっくり川からはい上がると…。

横田幸治さん:
見渡す限り、何もない。学校も何も全部ない。川の横のグラウンドに焼夷弾が刺さっているのが非常に印象に残っているね。川に焼夷弾が来ていたら終わりだった

福井市民の1.5%にあたる1,600人余りの命が奪われ、8万5000人が家を失うなどの被害を受けた。
77年を迎えた福井空襲。戦後復興を成し遂げ、横田さんは、かつて焼夷弾で無数の穴が開いた公園でグラウンドゴルフを楽しんでいる。

横田幸治さん:
この公園に焼夷弾が落ちていたと言っても、誰も関心を持たん。息子らに戦争の話をしても「おじい何言ってるんや」ってなもんで…、聞く耳持たんよ。そういう時代に生まれてきたから、平和を唱えて、平和でいてほしいなと思うね。強く思う
(福井テレビ)