2021年で戦後76年。広島県の軍需工場に学徒動員された元少年は、5回の空襲を生き延び、戦艦「大和」にも乗った経験がある貴重な証言者だ。
このような記憶を伝えようと、福井・敦賀市の市民たちが活動を続けている。

敦賀空襲から76年…サイレンに合わせ黙とう

7月12日、福井・敦賀市内に初めてサイレンが鳴り響いた。
76年前のこの日は、敦賀空襲があり、市民100人余りが犠牲になった日だ。

敦賀空襲(1945年7月12日)
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サイレンに合わせ、児童からお年寄りまでが、世代を超えて犠牲者に黙とうをささげた。

敦賀空襲の牲者に黙とうをささげる

ただ、子どもたちにとって先の大戦は、教科書で習う出来事の1つでしかない。

ーー敦賀空襲は知っていた?

敦賀市の小学生:
知らなかった

敦賀市の小学生:
聞いたことはあるけれど、こんなにひどいことだとは思わなかった

サイレンを鳴らすために尽力したのは、敦賀市遺族「次世代の会」だ。戦争犠牲者の孫やひ孫らがつくり、平均年齢は50歳前後で、2017年に立ち上がった。

敦賀空襲・犠牲者の法要で、奥野治樹会長(54)は参列者を前に、戦争体験を語り継ぐことの大切さを訴えた。

敦賀市遺族「次世代の会」・奥野治樹会長:
敦賀空襲の日にサイレンを鳴らしてほしい。そして5分でいいから、(学校で先生が)サイレンの意味を伝えてほしい

敦賀市遺族「次世代の会」・奥野治樹会長

敦賀市遺族「次世代の会」・奥野治樹会長:
次の世代へバトンタッチする準備をしないといけないと思っている

戦艦「大和」にも乗船…戦争を知る貴重な証言

次世代の会は、戦争の実態を知るため、体験者から直接話を聞く取り組みも始めている。

川村善之助さん:
向こうの方から敵戦闘機が2機、こちらにやってくる。何秒間の違いで私は助かった。もし(逃げることが)何秒か遅れていたら、私は70年前(戦争中)に殺されていた

島根県出身で戦後、敦賀に移り住んだ川村善之助さん(92)は、5回の空襲を生き延びた。

戦争当時について語る川村善之助さん

川村さんは、戦争末期の1944年11月、島根・出雲市にある神主・養成学校の生徒だったが、突如、広島県の軍需工場に動員された。当時15歳だった。

川村善之助さん:
先生から、「明日から汽車通学で呉の軍基地に行く」と言われて、みんなびっくりしたんや。わしら兵隊やないぞ、学校の生徒やぞと

動員されたのは、「東洋一」とも呼ばれた広島県の「呉海軍工廠(こうしょう)」だった。

呉海軍工廠

戦艦や航空母艦の多くは、ここで建造され、2万人が仕事に従事。川村さんはクレーンを使って、船に爆弾や魚雷などを積み込む作業に動員された。
多くの戦艦が停泊していたが、川村さんはある日、想像を絶する巨大な戦艦を目にした。

川村善之助さん:
タラップ(はしご)を見たら、「大和」はものすごく大きい。おじけづいた

川村さんが見たのは、当時世界最大と言われた戦艦「大和」だった。修理のため呉に停泊中で、乗組員の1人が知り合いだったことから、特別に大和への乗船が許可された。

呉に停泊中の戦艦「大和」

川村善之助さん:
(船内の)階段は2~3メートルある。兵隊が横に3人並んでも楽にのぼれる。装甲がどれだけ厚いか、たたいたら、手がはじき返された。厚さを聞いたら、30cmあると。魚雷が3発同じところに命中しないと貫通しない

川村さんが乗船した4カ月後。大和は鹿児島沖で撃沈され、乗組員の9割にあたる3,000人余りが、作戦通り“名誉の戦死”を遂げた。

川村善之助さん:
(大和の乗組員)3,000人の中に、長男が300人ぐらい乗っていた。長男は(家を継ぐため)大和から退艦するように言われたけど、いまさら長男が理由で降りることはできないと、みんな拒否したと聞いた

川村善之助さん:
海軍兵学校(エリート養成学校)を3月に卒業した士官や少尉は、日本が負けることは分かっていたから、「戦後復興をやれ」ということで排除された。そういうものを私はみんな聞いた

「この世のものじゃない」 原爆炸裂の瞬間も目撃

そして1945年8月6日、川村さんは一生忘れることのできない光景を目にした。
50km離れた広島市に原子爆弾が投下され、偶然、炸裂した瞬間を目撃したのだ。

川村善之助さん:
港を見ていたら、晴れていたのに一角だけ真っ暗。この世のものじゃない。

広島に投下された原子爆弾

川村善之助さん:
真っ暗な中、ピカッと光ったかと思うと、青白い光線が真横に何kmも波打ちながら走って、しまいにはブルブルと震えてパッと消える。それを3回見た。50km離れていたけど、「ドーン!」という音がかすかに聞こえた

記憶を語り継ごうとする次世代の会に、川村さんは最後に「(戦争は)国が破壊される。という事は生活が成り立たん。“戦争はしない”、それだけ。理屈はない」という言葉を託した。

記録には残らない、貴重な証言の数々。託された世代は、次の世代へと記憶をつないでいく。

敦賀市遺族「次世代の会」・奥野治樹会長:
細かい数までしっかりと覚えていて、それだけ印象に残っている体験だったと感じた。とにかく戦争という史実を風化させない、これが第一のわれわれの活動目的になる

(福井テレビ)