福井空襲から77年。体験者が減少する中、当時5歳で悲惨な爆撃を体験した男性を取材した。今も鮮明に覚えているのは、祖母と2人で燃え盛る街の中を命からがら逃げた記憶だ。その悲惨な経験を忘れることはできず、今はウクライナへ平和の祈りを捧げている。

「B29」127機が爆撃…炎の中、祖母の手を握り逃げた5歳の記憶

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北野禎輝さん(83):
実家の前が畑になっていて、母親が作った防空壕があった。「万が一の時にはここに逃げて」と、いつも聞かされていた。当時5歳でしたが、そのことだけは覚えています

こう語りだしたのは、福井市の北野禎輝さん(83)。5歳だったあの日の記憶が鮮明に刻まれている。

1945年7月 当時父は海外の戦地へ

北野さんの父親は当時、徴兵され海外の戦地にいた。福井空襲があった日、母と兄は、空襲に備えて家財道具などを移動させようと、福井市外へと疎開していた。

空襲当日、兄と母は市外に 家には祖母と5歳の禎輝さん2人だけ

家にいたのは北野さんと祖母の2人だけ。深夜11時すぎ、空襲警報で目を覚まし、すぐに家の前の防空壕へ向かった。

北野禎輝さん(83):
もう火の海やね、すでに。ドンドンドンと。家の形も何もない、出た時には。一軒だけでなく、みな燃えてますから

「B29」127機が福井市内を爆撃

1945年7月19日午後11時24分。アメリカ軍の大型爆撃機B29が福井市上空に出現。127機が、福井市中心部の半径1.2kmの範囲を、81分間にわたって爆撃した。

Q.B29の姿は見えたのですか?
北野禎輝さん(83):

B29は見えません。火が見えるだけ。轟音は聞こえる。おばばがいたので一緒に防空壕に逃げたんですけど、その防空壕があまりにも狭いし、その辺に焼夷(しょうい)弾が落ちてくるので(おばばが)「よっちゃん、これ危ないから川に行こう」と川へ逃げたんです。とにかく逃げたんです。私は手を引いてもらって逃げるだけ。怖かった、この辺は燃えているから。生きた心地はしない

真夜中にも関わらず、爆発により燃え盛る炎で周囲は明るかったと振り返る。祖母の手を握り、走って近くの川に逃げた。

北野禎輝さん(83):
堤防に防空壕が作ってあったんです。いくつあったかは分からないんですけど、人があふれるくらいいた。だから、どこか空いているところをおばばが見つけて入ったんですね。ところがやっぱり熱い。防空壕の中も熱い

街を包む炎と轟音…逃げ場を失い川へ「火がついたものも流れてくる」

空襲による火災から逃れようと、2人は近くの川を目指した。

北野禎輝さん(83):
この辺も人でいっぱいだった。川の深さも何も分からない。ただそこへ入るより仕方ない。おばばと手を引いて入った。川上からいろんなものが流れてくる。火が付いたものや材木のかけら、トタン板など。私の胸くらいまで深さがあった。腕に、流れてきたものが何でも当たった

胸まで深さがある川へ…

明け方まで川の中で息をひそめて過ごした。川から上がる際、大勢の人に阻まれ、祖母とはぐれてしまった。

北野禎輝さん(83):
私は防空頭巾やら綿が入った服を着ていたので、冷たい。夏でも寒い。そこにあった織物屋が燃えていて、そこで温まっていたんですよ。そしたら、おばばが「よっちゃん大丈夫か!!」と来てくれた。良かった、生きてたと。(疎開先の)徳光(現・福井市徳光町)へ行こう、お母さん待っているから、と

歩き出してほどなく、心配して迎えに来た母親と、川の堤防で再会した。

忘れられない…5歳の「戦争体験」 ウクライナの現状と重ねて

これは77年前、1648人の命が犠牲になった福井空襲の、5歳児の記憶。

Q.ー夜明けて目にした景色は?
北野禎輝さん(83):

焼野原。5歳のことは何も覚えていないけど、戦争のことだけは忘れられない。兄貴と遊んだことも覚えていないけど、戦争だけは脳裏に入っている。忘れられませんね

ウクライナでは今も、ロシアの軍事侵攻が続いている。北野さんは毎朝、戦争反対を訴え、祈りを続けている。

北野禎輝さん(83):
戦争を体験した人は、逃げている人を大変だと思いますよ。毎朝、ウクライナの戦争がなくなってほしいと祈っている

(福井テレビ)

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