指紋や顔、網膜など様々な認証方法があるが、将来、人間の吐く息が個人の認証に利用される時代が来るかもしれない。

東京大学と九州大学、名古屋大学、パナソニックインダストリーは5月20日、人間の吐く息(呼気ガス)から得られる化学情報に基づいて、個人認証を行なう原理実証に成功したことを発表した。

人工嗅覚センサを介した呼気センシングによる個人認証の概念図(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)
人工嗅覚センサを介した呼気センシングによる個人認証の概念図(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)
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研究グループは、呼気ガスが個人認証に利用可能な成分を含んでいるかを調べるために、ガスクロマトグラフ質量分析計を用いて呼気ガスの成分分析を実施。その結果、個人ごとに異なる呼気成分のパターンが存在することがわかった。

続いて、16種類の異なる性質を有する高分子材料と導電性カーボンナノ粒子の混合物から構成される人工嗅覚センサを作製し、人間の呼気のセンシング(呼気中に含まれるガス分子群をセンサを用いて検出)を行った。ここから得られたデータを人工知能で分析した結果、対象の20人に対して、97%以上の精度で個人を識別することに成功した。

※実験の様子(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)
※実験の様子(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)

これまでの生体認証技術には、情報が偽造・窃取された際の長期的ななりすましのリスクなどがあったという。しかし、呼気であれば一度使うと消費されるため、長期的ななりすましが難しいという特徴がある。

「呼気でも生体認証ができれば面白い」

息で個人を認証できるというのは驚きの技術だが、たとえば直前に食べたものによって認証できなくなったりしないのか? また今後どんなものに使われるようになるのだろうか?

詳しい内容を研究チームの一人である東京大学大学院工学系研究科応用化学専攻の長島一樹准教授に話を聞いてみた。


――なぜ人間の息に注目した?

一般的にはあまり浸透していないのですが、呼気には血液によって肺に運ばれ気化した生体活動の代謝物が含まれています。セントラルドグマと呼ばれる分子生物学の基本原則によると、人間の遺伝情報はゲノムから転写産物を媒体としてタンパク質へと伝達され、細胞内で代謝を促します。

つまり、代謝物は遺伝子情報が色濃く反映されたものであると考えることができる訳です。遺伝子解析に基づくDNA鑑定は良く知られた生体認証技術ですが、遺伝情報が反映された代謝物を含む呼気でも生体認証ができれば面白いと思ったのが本研究を始めたきっかけです。
(※転写産物…RNA合成酵素によりゲノムDNAを鋳型として合成されたRNA(リボ核酸)の総称)


――呼気の認証は以前から研究されていた分野なの?

呼気の成分構成が各個人で異なる可能性があることは、健常者11名を対象とする研究を通して2013年にスイス連邦工科大学により報告されています。

生体ガス(生体から放出されるガスの総称で呼気もこれに含まれる)を利用した生体認証の概念自体も2014年頃に提案されましたが、どういう訳かその後行われた研究の殆どは呼気ではなく皮膚ガスを対象としたものでした。しかし、皮膚ガスに含まれる多くの分子の濃度は呼気のそれと比べて1000倍ほど低く化学センサでは検出困難なことから、その適用限界が示唆されてきました。
(※皮膚ガス…体表面から放散される揮発性分子群の総称)


――呼気認証のやり方は?

基本的な操作としては呼気をセンサに吹きかけるだけです。センサには性質の異なる複数の検出素子が並べられており、呼気に対してそれぞれの検出素子から異なるセンサ応答が得られます。

今回の私たちの研究では16個の検出素子を並べたセンサを用いました。得られた16のセンサ応答パターンを予め個人の生体情報として登録しておきます。認証時には、同様に呼気をセンサに吹きかけて得られたセンサ応答パターンを登録情報と照合することで本人確認を行います。センサ応答パターンの登録と照合は人工知能による学習と判定に基づいて行われます。

呼気のサンプルを採集(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)
呼気のサンプルを採集(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)

「偽造や長期的ななりすましが難しい」のがメリット

――呼気認証は他の認証方法に比べ、どんな部分が優れている?

既存の生体認証技術は主に物理的な生体情報を利用していますが、情報が盗まれて一度偽造されると長期的な“なりすまし”を許してしまうリスクを抱えています。一方、人間の呼気は体内で生成された分子群で構成される化学的な生体情報であり、構成分子の種類も膨大なため、偽造が極めて難しい上に、もし盗まれても一度使うと消費されてなくなるといった特徴があります。そのため呼気認証には既存技術の課題を本質的に解決できる可能性があります。


――日本の人口は約12千万人だが、すべての人の呼気の成分は違う?

その可能性は十分あるように思います。最近のデータ科学研究により血液中の代謝物と遺伝子との相関性が明らかになりつつあり、呼気の成分構成が唯一無二の生体情報である可能性も見えてきました。

また、1000種以上あると言われる呼気成分のうち、個人を識別するために使える分子が50種類あるとした仮定した場合、各分子の濃度を大まかに「高い」「低い」の2パターンで分けると、その組み合わせは2の50乗でおよそ1125兆通りにも及びますので、すべての人の呼気が違う成分を持つこと自体はそれほど不思議なことではないように思います。


――呼気認証はその日の体調は影響しない?

今回の実験では、同一被験者から複数日採集した呼気を用いて検証を行いましたが、単日に採集した呼気による検証と同等の識別精度が得られました。被験者の中には期間中に体調が変化した人もいると思いますので、今回得られた結果は、呼気認証が多少の体調変化に対しては耐性があることを示していると考えられます。

一方、生体活動に大きな変化を及ぼすがん等の病気にかかった場合やその治療前後では認証精度が低下する可能性はあります。その際には改めて生体情報を登録し直す必要が出てくるかと思います。

実験の様子(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)
実験の様子(画像提供:東京大学 長島一樹准教授)

――食べたものによって、認証しづらくなることは?

食事の影響は大きいと考えています。食事は呼気認証における最も大きな技術課題です。この課題を乗り越えるための研究を現在進めています。日々変化する食事内容に対してデータ科学でどこまで認証精度を高められるかに挑戦中です。

将来的には“高セキュリティエリアへの入場制限”などに活用

――将来的にどんな場面で使われることになりそう?

企業や官公庁などの高セキュリティエリアへの入場制限やネットバンクのセキュリティ強化、QRコード決済に続く生体情報によるキャッシュレス決済に加え、インテリジェントビークルや来たるDX社会やメタバース社会での個人サービス提供など様々な利用シーンが期待されます。
(※インテリジェントビークル…高度情報技術を組み入れた車両のこと。車両間通信データ通信による安全走行や情報サービス提供などが期待されている)


――97%識別可能ということだが、100%にならないと実用化は難しい?

識別精度に関して言えば、精度向上は重要な課題ではあるものの、必ずしも100%でないと実用化できないということではありません。例えば、既存の他の生体認証技術と組み合わせて使用しても良いでしょうし、呼気センシングの特徴を活かして繰り返しセンサ応答パターンを収集し、複数回の判定を行うことで認証エラーを減らすことは原理的に可能です。


――実用化はいつぐらいになりそう?

現時点では本技術は開発段階にあるため、実用化の見通しは立っていません。今回第一段階の原理実証には成功しましたが、実用化へ向けては数多くの課題が残されており、今後はそれらを1つずつ解決して本技術の信頼性を高めていく必要があります。


食事という部分に大きな課題があるようだが、呼気認証が実現すれば、偽造や長期的ななりすましが困難なためこれまでの生体認証の課題を克服できるかもしれない。これからも実用化を目指して研究を進めてほしい。

プライムオンライン編集部
プライムオンライン編集部

FNNプライムオンラインのオリジナル取材班が、ネットで話題になっている事象や気になる社会問題を独自の視点をまじえて取材しています。