国宝『明月記』に記された「超新星爆発」

『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者にして歌道の大家、藤原定家は書でも有名で、定家流と呼ばれるその書跡は江戸時代に大流行したという。だが、その書は達筆には見えず、“元祖・へたウマ”といった趣がある。

さてその定家だが、和歌や書以外にも『明月記』という非常に貴重な日記を残していて、冷泉家時雨亭文庫に定家真筆の原本が保存されている。

冷泉家は藤原定家の末裔。歴代の天皇に和歌を教授した家柄で、同志社大学の南側にある邸宅は重要文化財に指定されている。だがそんなのは序の口で、時雨亭文庫には、なんと5件の国宝と48件の重要文化財が保存されているのである。いずれも定家以来、冷泉家に代々伝わった家宝だ。『明月記』は国宝に指定されているわけだが、ちょっと意外で面白いことに2019年に日本天文遺産というものにも選定されている。なぜ天文遺産なのか?実は『明月記』には、めったに起こらない「超新星爆発」の記述がなされているのである。

超新星爆発とは、銀河系の中で平均して100年から200年に一度ぐらい発生する白色矮星の爆発で、突然、他のどの星よりも段違いに強い光を放ち、日中でもその輝きを見ることができるほどの明るさらしい。『明月記』に記された超新星爆発は、現在の「かに星雲」であることが分かっている。つまり、定家の書き残した超新星爆発は1000年近くたった今、爆発で吹き飛ばされたガスが星雲となって夜空を彩っているのである。(残念ながら肉眼では見えないが。)
ただ『明月記』の記述は、定家が生まれる以前のことを陰陽師に聞いてそれを書き残したもので、他にも夜空の異変を何件か書き記し、貴重な古天文学の資料となっているという。

今回紹介する『古代文明と星空の謎』の著者・渡部潤一氏によると、こうした「超新星爆発」の記述は中国や韓国の古文書にもあるらしい。ただ、ヨーロッパにはないという。

「西洋は中世の暗黒の時代でしたから、『天変は不変である』というキリスト教の教えの悪い面が出てしまい、見えたものをそのまま記録しませんでした。つまり、超新星爆発の記録が残っていないのです」

なるほど、そんなことですらはばかられるのであれば、地球が太陽の周りを回っている「地動説」の発表がどれほど勇気のいることかよくわかる。コペルニクスは死ぬ寸前にそれを公にしたし、ガリレオ・ガリレイは火刑一歩寸前にまで追い込まれた。「それでも地球は回る」の名高いつぶやきは後世の脚色らしいが、心情はまさにその通りだったろう。

かに星雲
かに星雲
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ストーンヘンジの謎に迫る

さて、この『古代文明と星空の謎』は、タイトルがなかなか魅力的である。ともにロマンのある古代文明と星空=宇宙を取り込んでいるからだ。だからといって、この種の書籍にありがちな、ロマンを追うあまり愚にもつかない屁理屈を並べ立てて信じられないような結論に結び付ける“トンデモ本”では決してない。

著者の渡部氏は、国立天文台上席教授・副台長や国際天文学連合副会長を歴任した天文学者である。だから古代の遺跡と天文学的な関係についても、たとえそれが魅力的な結論であっても科学的根拠に乏しい試論に対しては、否定こそしないが懐疑的な態度に終始している。

さらに読み進めていくと、高校時代に地学で教わった、例の簡略化した地球(天球)に地軸(北極と南極を貫く回転軸)、赤道(地軸に垂直な最大円周)、黄道(太陽の軌跡)、白道(月の軌跡)が描かれてあって、その説明がなされている。その説明を飛ばしてもその後の話は何となく分かるが、理解したうえで読めば面白さはいっそう際立つはずだ。新書という手軽な書籍だが、よく考えて構成・編集されている。

内容に立ち入ってみよう。まず古代の巨石遺跡だ。
イングランド南西部・ソールズベリーにあるストーンヘンジは、使われている石の大きさはヨーロッパ最大級で、著者によると、大ざっぱにいって新石器時代から青銅器時代の遺跡と考えられているらしい。

ストーンヘンジは石が三重のサークルからできており、円の中心に聖壇石が鎮座する構造になっている。ただ、三重の円といっても、外側の2つのサークルは一方向が開いている馬蹄形というかフラスコの形になっている。そのフラスコの口のところにヒール・ストーンと呼ばれる目印の石が置かれてある。著者は、「まるで聖壇石からみてヒール・ストーンの方向に道が続いているように見えます。この方向は北東になります」と説明し、さらに「この方向が『夏至の日の出の方向』、つまり、『太陽が一番北側に寄ったときの日の出の方向』と一致しているのは、昔から知られていました」と進める。

そして1960年代に入って、アメリカの天文学者が「ストーンヘンジは古代の天文台」という説を発表し、「夏至、冬至、春分、秋分、日食、月食の予測に使われた可能性がある」と指摘したことによって、にわかに注目されることになった。夏至から秋分までは分かるとして、日食や月食といった複雑な天体計算がこのストーンヘンジで導き出すことができるのだろうか。これが造られたのは、新石器時代から青銅器時代なのである。

天文学者にしてSF作家のフレッド・ホイル氏は、ストーンヘンジについて、「太陽マーカー」「月マーカー」と呼ぶ石を、三重サークルのさらに外側にあるオーブリー・ホールという穴に入れて、「太陽マーカー」を13日で2穴進め、「月マーカー」を1日に2穴進め、さらにオーブリー・ホールの正反対の穴にさらなるマーカー石を入れて、1年に3穴進める。そして「この太陽マーカーと月マーカーともう一つのマーカーが同じ穴に集まったとき日食(月食)が起きる」としている。著者のいうように古代の「アナログ・コンピューター」だ。腰を痛めそうだが、理屈ではそれで合っているらしい。ただ、著者の渡部氏は新石器時代から青銅時代に「白道が黄道に対して18.6年周期で回転している」事実を知っていたのかと、懐疑的な姿勢を見せている。

ストーンヘンジ(英・ソールズベリー)
ストーンヘンジ(英・ソールズベリー)

ピラミッドの向きの「ずれ」を考察

話はさらに古代エジプトにも及ぶ。
エジプトの貴重な観光資源であるピラミッドのなかでも特に有名なのは、カイロ郊外のギザにある3つの大ピラミッド群である。そのピラミッド群が東西南北に合わせて建造されているのはよく知られた事実だが、著者によれば「現在の最新の測量技術を使って、やっと分かるぐらいの誤差の範囲に収まっています」というほどの精度である。これはもちろん、古代エジプト人の卓越した天体観測の技術があってのことだろう。だが、面白いのはここからである。

方位の極々わずかな「ずれ」以外にも、3つのピラミッドの向きが微妙にずれていることが分かったのである。著者によると、その「ずれ」があまりにも小さかったため、考古学研究者の間では「星を測量したときの誤差によって生じたずれ」と考えられてきたという。ところが近年になって天文学者の間から、その「ずれ」から「ピラミッドが建造された正確な年代が推測できるのではないか」という説が発表されたのである。

地球の地軸の北極側の延長線上に「北極星」が輝いている。だから船乗りは天の北極星の方角が北だと分かる。ところが、「みそすり運動」といって、すり鉢の味噌をスリコギで擂(す)るときに軸の尾が円を描くように、あるいは回転力の弱った独楽(こま)の軸先が小さな円を描き始めるように、地軸もごくわずかに回転し、結果として地軸の先にある北極星も天でごく小さな円を26000年にわたって描くのである。これを「歳差」という。そしてこの歳差による真北のずれが、建造年の違う3つのピラミッドの同士の向きのずれを生んだのはないか。もしそうなら、それによってかなり正確な建造年が分かる可能性がある。見事な洞察である。

そうした中、ケンブリッジ大学の女性エジプト学者のケイト・スペンス氏が精密に各ピラミッドの東西南北を計測し、歳差によるずれをグラフに表したところ、北極星のずれを表した直線上に、考古学的に推定されている各ピラミッドの建造年が寄っていたことにより、古代エジプト人が星によって真北を決めていたことがほぼ確定的になった。ただ、それぞれのピラミッドの建造年を年単位で確定するところまでは至っていないようだ。

ピラミッド(エジプト・ギザ)
ピラミッド(エジプト・ギザ)

キトラ古墳「星宿図」の観測地は?

もちろん、日本にも天体にかかわる古代遺跡がある。壁面に極彩色で描かれた美人画などが発見されて大きな話題となった奈良・明日香村の高松塚古墳には「星宿図(星座の天文図)」も描かれていた。だが、古天文学者が注目したのは、その高松塚古墳から1キロほど南にあるキトラ古墳の天井の星宿図である。この星宿図が注目されるのは、高松塚古墳のそれより詳細なこと。そして、星宿図に星座とともに天の赤道・黄道、そして「内規」と「外規」の円が描かれていたのである。

内規とは、ある地点で1年を通してそれぞれの星座が欠けることなく見える範囲である。反対に、ある地点で星座が季節にかかわりなく全く見えない範囲もある。もちろんその中間の星座もあり、例えば北斗七星は東京では柄杓の上の部分は見えるが、柄の部分は内規から外れる。その中間点を結んだ円を外規と呼ぶ。なぜ「内規」「外規」が重要かというと、その2つの円を精査することによって、星空を観測した地点の緯度が分かるのである。これは先に示したこの本の「地学」の項目を熟読すれば理解できるし、理解しなくても直感で何となく分かるだろう。

もちろん、乙女座やてんびん座などなじみのある星座と古代中国の星座はまったくの別物だが、以前からその対応関係は調べられていた。そして2つの研究者とグループが、先のピラミッドで出た「歳差」などを勘案し、統計的手法なども用いて、天体図が作成された年代とその位置を推測している。天文学者の宮島一彦氏は、キトラ古墳の星宿図の原図が作成された地について「427年以降、高句麗の都となった平壌の緯度39.0度に近い」と結論づけたという。ただ、計算上は「紀元前65年」と推計されたが、この時代に星宿図が高句麗で作られたとは考えられず、他の分析結果とあわせて、中国で作られたものが高句麗に伝わり、そこで自国の緯度に合わせて作り直したものが日本に伝わったとしている。

一方、国立天文台の相馬充氏とOBの中村士氏らは、描かれた星の位置から推定するという、まったく違うアプローチを行った。観測値に基づいた「距星」と呼ばれる星を基準として(その他の星座の中の星は「目分量」で描かれていたらしい)、天文計算との理論値の位置とを比較して、その誤差が統計的に最も小さい年代を調べたのである。いろいろと試行錯誤の結果、原図の観測年代は「西暦300年 ±90年」、作成地は「北緯33.9度 ±0.7度」と推計された。この範囲には中国の長安(現在の陝西省・西安)や洛陽、そして奈良・明日香も含まれるが、著者は「相馬先生は、恐らく飛鳥でつくられた図ではないだろうと結論しています」としている。当時の日本では天体観測があまり行われていなかったのがその理由である。たしかに、西暦210~390年といえば、邪馬台国の卑弥呼の時代から前方後円墳が出現し、大和朝廷が成立したのではないかと推測される時代である。和製でないのは残念だが、やはり中国で作成されたものだろう。

キトラ古墳(奈良・明日香村)
キトラ古墳(奈良・明日香村)

さて、邪馬台国の卑弥呼にも古天文学にかかわる発見がある。この本では触れられていないが、おそらくそれはあまりにも曖昧模糊とした話なので、著者の一貫した科学的な姿勢から割愛されたのだろう。
卑弥呼をめぐっては、古くから「卑弥呼=天照大神(アマテラスオオミカミ)」説があって、今も論争が続いている。卑弥呼は「日の巫女」、つまり太陽神に奉仕する女性の日本語を音訳したもので、天照大神との親和性が強いことや、日本神話の天照大神にも魏志倭人伝の卑弥呼にも弟がいると記されていることがその根拠となっている。
ところが、『三國志』や『晋書』の記述から天体計算で推測し、西暦247年3月24日と248年9月5日に日食があったことが判明したのである。それは魏志倭人伝で記された卑弥呼の死亡年(248年)に合致する。魏志倭人伝には死因は書かれていない。しかし連年で日食が起こるというのは、稀なことではないだろうか。「日の巫女」たる卑弥呼の死に関係がありそうな直観がある。さらに、天照大神が天岩戸に隠れ世界が真っ暗闇に包まれたという日本神話も、日食を暗示しているように見える。一言でいってしまえば、日食という“不吉なもの”(瑞兆と感じる人はまずいないだろう)を起こしてしまった「日の巫女」は「いけにえ」として殺されてしまったのではないかというものだ。想像力をかき立てられる話だが、魏志倭人伝、『古事記』、『日本書紀』の記述と牽強付会するのは避けたい感じもする。巨石遺跡やピラミッド、古墳の「星宿図」のような「物証」がないのである。

この本は、これ以外にも古代の暦の話やマヤ文明やポリネシアの天文学など、タイトルどおり古代文明と星空の謎がてんこ盛りになっていて、どの話も文句なしに面白い。古代文明と宇宙・天文に興味のある人は、充実した読書体験を味わうこと間違いない。

【執筆:赤井三尋(作家)】

『古代文明と星空の謎』(渡部潤一 著・筑摩書房)

赤井三尋
赤井三尋

本名・網昭弘 早稲田大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送に入社。2003年『翳りゆく夏』で第49回江戸川乱歩賞受賞。2006年フジテレビジョン報道局へ転籍。
【著書】
『翳りゆく夏』( 講談社文庫)
『どこかの街の片隅で』( 単行本・講談社 改題して『花曇り』講談社文庫)
『2022年の影』(単行本・扶桑社 改題して『バベルの末裔』講談社文庫))
『月と詐欺師』( 単行本・講談社 講談社文庫【上・下】)
『ジャズと落語とワン公と 天才!トドロキ教授の事件簿』(単行本・講談社 改題して『面影はこの胸に』講談社文庫)
【テレビドラマ】
翳りゆく夏(2015年1月18日 ~(全5回) WOWOW「連続ドラマW」主演:渡部篤郎)