映画撮影のため沖縄へ向かうも…米が渡航拒否

1972年、沖縄の本土復帰を記念した式典が開催された那覇市民会館。

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沖縄テレビのライブラリには、1970年に完成するまでの那覇市民会館の建設の様子を記録した15分余りの映像が残されている。

そこに映っている1人の女性。1969年に制作された映画で、ヒロインを務めた佐々木愛さんだ。

劇映画「沖縄」。戦後、米軍による土地の強制接収に立ち向かう沖縄の人々の土地闘争を描いている。愛さんの記憶に強烈に焼き付いているのは、アメリカ統治下に置かれ日本から切り離された沖縄の姿だった。

佐々木愛さん:
監督2人と中村翫右衛門先生と私たち4人が渡航拒否されたものですから、その段階でそういう作戦になったんだと思うんですけれど…

沖縄を統治していたアメリカは、明確な理由の説明もないままに撮影隊の渡航を拒否。映画製作は序盤から異民族支配の壁にぶつかった。

佐々木愛さん:
A班・B班という形で(分かれて)、私たちは奄美とか徳之島で武田監督たちと仕事して。沖縄は橘祐典監督が撮影をやった

結局、愛さんに沖縄への渡航が許されたのは映画が完成したあとのこと。沖縄での試写会のため申請を繰り返し、3度目でようやく認められたのだ。

「全て沖縄のもので作った」那覇市民会館に感動

沖縄でも愛さんの渡航を実現しようと関係者が力を尽くし、身元引受人となったのは当時の那覇市長・平良良松だった。

佐々木愛さん:
税関の所でトランクを開けようと思ったら「結構です。佐々木愛さん、ようこそ!」って言っていただいて。まずびっくりして。それから瀬長亀次郎さん、それから屋良朝苗主席、皆さんにお会いした

復帰運動をけん引した政治家や沖縄の人々の支えを感じたという。そして、平良良松に案内され訪れたのが、建設中だった那覇市民会館だった。

佐々木愛さん:
もうすごく印象に残っているんですよ。「全部沖縄のもので作りました」っていう言葉がすごく誇らしく聞こえて、いいなと思いました。やはり感じたことは、さすが芸能を大事にしてこられた県民性だなって

愛さんが代表を務める劇団文化座は、演出家の父と女優の母によって戦時下の1942年に結成された。「戦争を経験した数少ない劇団」として、現在までその痛みや憤り、そして反省を創造の柱に据えている。

沖縄返還の2年後、1974年に初の沖縄公演が実現。愛さんはその後、幾度も沖縄で舞台に立った。

本土復帰から50年 沖縄の未来に生涯をかけた人物描く

そして今回、劇団文化座の創立80年と沖縄の本土復帰50年を記念した、復帰前の沖縄を描いた舞台「命どぅ宝」を上演。

阿波根昌鴻(演・白幡大介さん):
教えて欲しいんです。瀬長さん。沖縄は本当に島ぐるみで戦うことができますか

瀬長亀次郎(演・藤原章寛さん):
できますよ。だから阿波根さん、あんた達を巻き込みたい

戦火をくぐり抜け、必死に毎日を生きる沖縄の人々の思いに反して、アメリカ軍は強制接収で
土地を奪っていった復帰前。

物語の主人公は、非暴力の抵抗でアメリカ軍に立ち向かった阿波根昌鴻と、不屈の魂で自治権を求め民衆を率いた瀬長亀次郎の2人。沖縄の未来のため生涯をかけた彼らの姿を描いた。

阿波根昌鴻(演・白幡大介さん):
銃剣とブルドーザーで農民は土地を奪われた。わしらは、わしらの農耕地で射撃演習をしても良いと言った覚えは無いよ。だからわしらはね、叫ぶことを止めません

瀬長亀次郎(演・藤原章寛さん):
沖縄の90万市民が声を揃えて叫んだならば、その声は太平洋の荒波を越えて、ワシントン政府を動かすことができます

佐々木愛さん:
未だに瀬長さんの「不屈」という言葉と、「命どぅ宝(命こそ宝)」という阿波根さんが大事にされた言葉は、今の日本にこそ必要な言葉だと思うので。沖縄で公演して沖縄の方に見ていただくことはもちろん嬉しいことですけれども、私は沖縄の方にお墨付きをいただいて、これを日本全国に持って行きたい

女優・佐々木愛さんは、演劇を通して沖縄の本土復帰というテーマに向き合っている。

(沖縄テレビ)

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