2021年、共に100歳を迎えた夫婦がいる。合言葉は「夫婦元気に100歳、100歳」。決して平坦な道のりではなかった人生。波乱万丈を乗り越えてきた2人の今を取材した。

200mを歩く散歩、毎日欠かさず

2021年9月に撮影された写真に写っているのは、佐賀県嬉野市塩田町の近藤忠義さんとシヅ子さん夫妻だ。笑顔でほほ笑む2人は2021年、共に100歳になった。

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――夫婦で100歳を迎えた気持ちは?

近藤忠義さん:
家族のおかげで(迎えられた)。感謝の気持ちね。「ありがとう」という

大正10年(1921年)8月21日生まれの忠義さんは、長男の和正さんやその妻・明美さんと3人で暮らしている。

同居する長男の和正さんとその妻・明美さん
同居する長男の和正さんとその妻・明美さん

忠義さんの日課は散歩で、1日約200メートルを手押し車を使って1人で歩いているという。

毎日、散歩を欠かさないという近藤忠義さん
毎日、散歩を欠かさないという近藤忠義さん

週2回、デイサービスに通っているが持病はなく、元気に100歳を迎えることができた。

――長寿の秘訣は何ですか?

近藤忠義さん:
朝、顔を洗う時に水をコップ1杯飲むこと。それから酢物を食べること

戦火を生き抜き…100年で“一番の思い出”とは

一方、忠義さんの半生を振り返ると、決して平坦な道のりではなかった。

20歳のころ、軍隊に入るため中国東北部にあった満州へ渡った忠義さん。当時、男性は20歳になると徴兵検査を受け、合格すると兵隊になるのが義務だった。

そして、太平洋戦争後期にソ連、現在のロシアの国境付近から台湾まで移動することになった。

近藤忠義さん:
満州からずーっと下ってきて、門司から台湾海峡で敵の潜水艦に敗れて。棒にすがりついて、木切れにすがりついて、台北まで泳いで渡ったんです

忠義さんは命からがら台湾に到着し、空襲から逃れながら終戦を迎えると、アメリカの商船に乗って日本に帰ったという。

近藤忠義さん:
これが一番の(大変だった)出来事ですね。戦争でね、大方、戦争で死のうとしたから

その後、忠義さんは26歳で結婚し2人の娘を授かったが、10年もたたずに妻が病気で他界した。悲しみに明け暮れていた時、知人の紹介で同じ地域に住んでいたシヅ子さんと出会った

――100年間で一番の思い出は?

近藤忠義さん:
結婚したこと、結婚式ですよね。まあ…好きだったから。「一緒になってくれ」と言った

1957年5月、35歳で結婚した2人。2年後に長男が誕生した。

シヅ子さんは「農家に嫁ぎたくなかった」と愚痴をこぼしながらも、夫婦でコメやミカンを栽培しながら3人の子どもを育て上げ、今や孫8人、ひ孫9人に恵まれた。

長男・和正さん(62):
おふくろは、どちらかというと世話好き・きれい好き。父の方は、おとなしく自分のことをやっている。おふくろは、どっちかというと言う方だから、父はそれに従っているというか(笑)。持ちつ持たれつの夫婦だと思う

妻と2カ月ぶりの面会「うれしくて、うれしくて」

11月末、忠義さんは嬉野市内の特別養護老人ホームに向かった。

待っていたのは妻のシヅ子さんだ。新型コロナの影響もあり、2カ月ぶりの面会となった。

2カ月ぶりの面会で握手する忠義さんとシヅ子さん
2カ月ぶりの面会で握手する忠義さんとシヅ子さん

近藤忠義さん:
早よ元気になって帰ってこんば。ね? 待っとっけん

シヅ子さんは骨折をきっかけに車いす生活になり、2020年2月から施設へ入所した。認知症が進んでいく一方で、65年一緒だった忠義さんのことを忘れることはないという。

普段は口数少ない忠義さんも、この日は何度も声をかけ、シヅ子さんの手を握った。

近藤シヅ子さん:
うれしくて、うれしくて

近藤忠義さん:
会えて良かったです。ありがとうございました

――忠義さんはどんな人ですか?

近藤シヅ子さん:
よか人よ

近藤家の合言葉は「夫婦元気に100歳、100歳」。忠義さんは、今後も健康で家族に心配をかけないことが目標だという。

――何歳まで生きたい?

近藤忠義さん:
ははは(笑)。それは分からない。長生きして、日本一長く生きようかな

(サガテレビ)

サガテレビ
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