かつて“奇跡の鉱物”とまで呼ばれていたアスベスト(石綿)。高度経済成長期には、耐熱性、保温性の高さから建設用資材など、さまざまな製品に使われていた。

一方、今ではアスベストは「中皮腫」というがんの一種を引き起こすことが分かっている。被害に遭ったのは、アスベスト工場の作業員だけではない。「どこでアスベストを吸ったのか分からない」人たちも大勢いるのだ。

彼らには労災が適用されないため、企業からの補償金が無く、国による療養手当もわずかで、生活が困窮している人も少なくない。

日々悪化する容体、そして死。

2016年に中皮腫だと診断された右田孝雄さんは、患者同士をつなげ、その環境を変えようと試みてきた。

前半では、患者たちの生きざまを通して、中皮腫という病気をめぐる現状を探る。

【後編】「薬が効かず100mと歩けない」アスベスト被害の患者200人が霞ヶ関で訴えた怒り

潜伏期間は平均約30年。アスベストによる希少がん「中皮腫」

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「遺影は金髪にするのか黒なのか悩んでるんですよ。あっはっは」

美容院で髪を金髪に染めた右田孝雄さんは、いつもの調子で明るく笑っていた。

このとき、54歳。2016年7月、アスベストが原因とされるがんの一種「中皮腫」と診断され、手術もできないステージ4、余命2年と告げられた。

病気になるまでは、髪を染めたこともなかった。

「抗がん剤をして、ちょっと髪の毛が薄くなったから、それをごまかすのに金髪にしたんです。半ばやけくそ。死ぬまでにやってみたいことリストの中から、ポンと思いついたのがこれだったんです」(右田さん)

中皮腫は、アスベストを吸い込んでから、一般的に20年から50年ほど経って発症する。そのため、いつ、どこで吸い込んだのかがわからないケースもしばしばだ。右田さんもその一人。

「なぜ自分がって感じですよ」

ある患者は学生時代、自覚症状がないにもかかわらず医師に「放っておいたら、余命2年だったよ」と告げられた。

別の患者の中皮腫が見つかったのは、ほかの手術をしている最中だったという。

高い断熱性や耐久性から、かつて“奇跡の鉱物”と呼ばれた石綿アスベスト。

1960年代には海外で発がん性が指摘され、世界各国で使用規制が強化された。

しかし、高度経済成長期だった日本では使用が続けられる。

ようやく原則禁止になったのは、2004年。多くの人が知らず知らずのうちにアスベストに接し、“死の棘”を吸い混んでいた。

その結果、被害は学校の体育館やホテルのボイラー室、高架下の飲食店などと思いがけない場所へと広がることになる。

アスベスト工場の工員や近辺住人、アスベスト工事に携わった者だけでなく、アスベストが使われた場所で過ごしたことのある人々も、被害を受けることになってしまったのだ。

闘病の日々を綴ったブログで仲間たちと出会った

大阪府岬町にある右田さんの家の近くにも、アスベストを扱っていた工場があった。

「もともとは織物工場で、多分アスベストを扱っていた。でも、当時それは知らなかった。ただ、毎日前を通るだけだった。地元の友達の中にもアスベストを吸って、肺がんや中皮腫になった人はいない」

アスベストを吸ったのは、幼いときに工場の前を通ったときなのか、それとも郵便局に勤めていた時なのか――。原因は今もわからない。治療に専念するため、仕事は辞めた。

中皮腫は完治するのが難しく、5年生存率はわずか7%ほどともいわれている。息子の闘病生活に寄り添う両親もまた、苦しい思いを抱えている。

「余命があと2年だなんていうから、親としてどれだけしんどかったか…」

父の弘美さんは、当時を振り返った。

右田さんの自室は、大ファンである阪神タイガース一色だ。右田さんの日課は、ここからブログを発信すること。

中皮腫がわかった当時、右田さんはブログを開設した。あまりの情報の乏しさに、自身の日々の記録を残したいと考えたのがきっかけだったが、やがてそこには同じ病気で苦しむ患者たちからの声が寄せられるようになった。

「いろんな人から『いいね』をもらったり、コメントしてもらったり。寄せてもらったコメントを見て、他の人も頑張っているんだなと勇気づけられたり…」

いまや、ブログは右田さんの生活に必要不可欠なものになっている。

「みんなに、受け入れられないことが起きてるわけでしょう。一人で悩んでいると、どんどん落ち込んでいってしまう。そんな状況から『一緒に頑張ろう』と引き上げられるのが、患者同士ならではなんじゃないかなって」

中皮腫患者たちが抱く不安と孤独

北海道に住む田中奏実さんもまた、アスベストとの接点がわからない中皮腫患者の一人だ。ある講演のなかで、アスベストがどれだけ縁遠い存在だったかを語っている。

「最近、小さい頃によく行ったデパートの駐車場で吹き付けアスベストが使われたことを知り、身近にアスベストがあったということ自体に驚きました。もちろん、それが原因かはまったくわかりませんが…」

田中さんが中皮腫だと告げられたのは、18歳のとき。

昼は短期大学、夜は専門学校に通う学生だったが、北海道を離れ、治療に専念。左の肺をすべて摘出した。

今も再発の不安が消えることはない。そのため、夢だった調理関係の仕事をあきらめ、現在は菓子店でアルバイトをしている。

発症がわかったときは、こんな風に感じていた。

「中学生時代につらいことが多くて『死にたいな』と思いながら生活していたんです。だから、中皮腫ってわかったときは、その時期にちゃんと生きようとしなかった罰かなって」

家族には、病気に対する不安は打ち明けづらかった。

「両親の泣いている顔を見たら、言えないですよ。自分が元気でいなくちゃ、笑顔でいなくちゃ、って思いますよね」

それから10年以上が経つが、田中さんは不安な思いを1人で抱え続けてきたのだ。

右田さんは、「同じ病気だからこそ支え合える」との思いから、全国の患者同士をつなげようと試みてきた。自ら各地に足を運ぶこともあれば、交流会を開催したり、講演会に登壇したりと、日々活動している。

この日に行われた名古屋での交流会は、右田さんがブログで呼びかけたもの。全国各地から、中皮腫の患者たちが集まった。

この中には、どこでアスベストを吸ったのか分からない人も多くいる。

「小学校のストーブとかも石綿でしたよね。それも、可能性としてなくはないのかなとも思うし……。父親がアスベストに携わる仕事をしていたわけでもないので、どこで吸い込んでしまったのか、本当にわからない」(中皮腫患者の原修子さん)

発症例の少ない病気ゆえ、普段は孤独を抱えながら闘病生活を送っている中皮腫患者たち。交流会では、それぞれが自身の思いを打ち明け合う場面も見られた。

「私が母に対して思っているように、子どもには、私がいなくなっても『お母さんは毎年おせち料理を作ってくれたな』と思ってほしいんです。だから、余命宣告されたときは、『これが最後かもしれないから絶対に作らないと』と、半泣きでおせちを作りました」(中皮腫患者の藤原妙子さん)

「アスベストなんか。自分には関係ない」

そう思っていた患者たちが、これだけいるのだ。

中皮腫患者のなかにある格差

実は、同じつらさを味わっている中皮腫患者の中にも、格差はある。

仕事が原因でアスベストを吸い込んだと証明できれば、その患者には労災が適用される。病気で仕事を休んでも平均賃金の8割が保証され、死亡すると、遺族に年金が支払われるのだ。

しかし、アスベストを吸い込んだ原因が仕事と関連づけられない場合は、労災がおりることはない。アスベスト被害の救済として国から支給される療養手当は、月10万円ほど。遺族年金もない。

右田さんも、こうした不公平を実感している身だ。

「病気療養のために仕事ができなくなっても、受け取れるのは療養手当のみ。生活費の保障が一切ないため、困窮した生活をしている人もたくさんいる」と右田さんは打ち明ける。

自分も労災ではないのか――。そう考えた右田さんは、以前勤めていた郵便局へ手がかりを探しに行ったこともある。よく出入りしていたボイラー室で、アスベストを吸ったのかもしれない。

しかし、めぼしい結果は得られず、念のためアスベストのようにも思える素材を持って帰ることにした。

そうしている間にも、病気は確実に進行していた。診察に赴いた右田さんが告げられたのは、胸水が増え、腫瘍も大きくなっているという事実だ。

いつも陽気な右田さんの顔から、笑みが消える。

治療を終えて帰宅する車の中で、右田さんはぽつりと言った。

「あとどれだけ生きられるかなぁ。次々に出てくる新しい薬をつないで、つないで、うまいこといかないかなと思うんだけど」

一日の終わり、家族で食卓を囲んだ最後に、父の弘美さんが真情を吐露する。

「こんな年寄りを残して死んでいかれたら、本当に参ってしまう。死なれたら困るんだよ。何が何でも生き残ってくれないと」

希少ながんであるがゆえ、社会保障をはじめとする中皮腫患者を取り巻く環境は、なかなか変わらない。後編では、そうした環境を変えようと声を上げ始めた患者たちの姿を追う。

【後編】「薬が効かず100mと歩けない」アスベスト被害の患者200人が霞ヶ関で訴えた怒り

関西テレビ
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