緊急事態宣言の下、5月9日に大相撲夏場所が初日を迎える。
厳しい感染予防態勢の元でどんな気迫に満ちた取組を力士たちは見せてくれるのか。全国の相撲ファンの視線が集まる。
そしてその視線の中に、髙安の巻き返しを特別な想いで待ち望む元アスリートがいる。
女子バレー日本代表のエースとして一世を風靡した大山加奈さんだ。
「髙安関が頑張っている姿にいつも力を貰っているので、今場所も自分らしく戦って欲しいです」
大山さんとその家族にとって、恩人とも言える存在となった高安への想いを聞いた。
自宅から5分の所に田子ノ浦部屋

2人の縁は2016年春の巡業に始まる。
大山さんが知人の紹介で巡業先の支度部屋を訪れ、一緒に写真を撮った際にメールアドレスを交換、やりとりする仲になった。
大山さんは東京都江戸川区出身。髙安の所属する田子ノ浦部屋も江戸川区小岩にあり、「家から車で5分ほどの距離です。地元の部屋ということもあり両親が熱心に応援してましたし、相撲が大好きだったので、場所がある度にテレビで応援する姿を見ていました」と話す。
一方の髙安は、少年時代から大山さんに憧れていた。
6歳年下の髙安がまだ中学生の頃、全日本で大ブレイクし『メグカナブーム』を巻き起こした大山さんを見て、バレーボール観戦に夢中になった。
187センチの長身で活躍する姿に「自分も早くこんな風に大きくなりたい」と憧れていた。
そんなお互いを意識し合うアスリート同士。大山さんにとって、生涯忘れることの出来ない一番が生まれる。
ガンで闘病する母に力を与えた大一番
4年前に他界した母・久美子さん(享年55歳)に膵臓ガンが見つかり、ガン専門病院に入院していた時のことだ。
「発見された時にはステージ4でかなり進行している状況で、もう手術は出来なかったんですよね。それで抗がん剤で、なんとか延命じゃないですけど治療していた」頃だという。
2017年1月、初場所の9日目。小結の髙安が格上の横綱・白鵬に挑んだ。

「病院のラウンジで、母と一緒にテレビで見ていました。他にも患者さんが沢山いて、この取組を注目していました」
この一番は、髙安と同部屋の兄弟子・稀勢の里(当時大関)が、白鵬と優勝争いを繰り広げる最中での戦いでもあった。
「髙安関はもちろん自分のために戦っていたと思いますが、兄弟子の稀勢の里関のためという思いもヒシヒシと伝わって来た」と大山さんは言う。
固唾をのんで見守る中、立ち会いから髙安が右で当たり、横綱を相手にかち上げた。その圧力に後ずさりする白鵬。あとはその好機を逃さず髙安が押し出した。
大山さんは、「髙安関が勝った瞬間、歓声が起きてみなさん一緒になって喜んでいました。ガン専門の病院だったので、どうしても重たい空気が流れていたんですけど、その空気が一変して明るいポジティブな空気になりました。
母も髙安関に初めて合った巡業の時に、一緒に支度部屋でお会いしたので、応援する熱量も高かったですね。私のファンだということを知ってから、さらに特別な存在になっていたので、声を出しながら応援して、喜んでいました」と振り返る。
この一番に、当時大山さんは自身のツイッターにこう書き綴っていた。
実は母がまた入院していて…
— 大山加奈 (@kanakanabun) January 16, 2017
今日の高安くんと白鵬関の取組を
入院病棟のラウンジで観戦。
高安くんが勝った瞬間の
盛り上がりがすごくて!
みんな点滴しながら観てるのに
大拍手!
少し重ためな入院病棟の空気が
一瞬で変わったのです。
スポーツの持つ力を実感させられた
瞬間でした。
実は母がまた入院していて…
今日の高安くんと白鵬関の取組を
入院病棟のラウンジで観戦。
高安くんが勝った瞬間の
盛り上がりがすごくて!
みんな点滴しながら観てるのに
大拍手!
少し重ためな入院病棟の空気が
一瞬で変わったのです。
スポーツの持つ力を実感させられた
瞬間でした。ほんとにみんな目に見えて
元気になって!
しかも知らない人同士なのに
みんなで拍手して同じ気持ちを
分かち合って、なんだかとても
素敵な空気に包まれました
スポーツってすごいですね!
ありがとうございます
きっと母も元気もらったはずです!
(大山加奈さんの2017年1月16日のツイートより)

文面には、病気と闘っている母たちを元気付けてくれた髙安への感謝と、スポーツの力への想いが溢れた。
残された時間に、間近で見た気迫の稽古
この取組から約1ヵ月後の2月、大山さんは田子ノ浦部屋の稽古場に、両親を連れて見学に訪れていた。
当時、母・久美子さんの病状は「厳しい状況で、治療はもう何も出来ない状況」であり、ガン専門の病院でも施せる治療がなくなり、残された時間を家族と一緒に過ごし始めていた。
大山さんの家族3人が、髙安の計らいで見守る中、初場所の優勝で新横綱に決まったばかりの稀勢の里との激しい稽古が始まった。

気迫の込もった三番稽古。2人は繰り返し繰り返し、何番もぶつかり合った。
「土俵の空気がピリピリしていて、あの場にいられて幸せだなって思いました。なかなか感じることが出来ない空気感でしたし、あんなに間近で本気のぶつかり合いを見ることはないので、すごく貴重な経験をさせて貰いました」
この稽古を目の当たりにした母・久美子さんは、「ちょっとうるうるしていました。あの空気感は無条件に心が動かされるものでした」と大山さんは語る。
そして稽古の後、髙安が久美子さんの手を握り、励ましの言葉を贈った。
「何より嬉しそうで、顔色もずっと悪かったんですけど良くなって、すごく大きなパワーを貰いました」
家族にとって、かけがえのない思い出の時間となった。
ともに母となり、父となり

母の他界から4年、偶然にも2人は今年2月に子の親となった。
大山さんは双子の女の子を出産し、髙安には長女が生まれた。
現在の生活ぶりを大山さんに聞くと「大変ですが幸せを噛み締めながら過ごしています。双子なので2人同時に泣かれると、どうしようもなくて大変ですが、偶然にも同じ時期に女の子の親になるというのはご縁を感じました」という。
一方の髙安は3月場所を終えた後、出産のために里帰りしていた妻が待つ北海道へ迎えに赴き、今は東京で一緒に生活を始めている。
沐浴を手伝ったり、ミルクをあげたり髙安の顔を見るとニコニコと笑みを返してくれるという。
この夏場所は、父親となった事をあらためて実感しながら戦うことになる。
大山さんは「守るものが増えて責任とか覚悟を感じていると思いますが、すごい真面目な方なので、難しいですが重荷にせずに、ポジティブなパワーに変えてもらいたいと思います」とエールを送る。
それでも怪我と戦いながら31歳で挑む戦いは、決して平坦ではない。
かつて大関の看板を張ったその地位への帰り咲きという期待も、確実に生まれて始めている。
「髙安関ならまた大関に帰り咲いてくれると信じています。身体もしんどくなるし、怪我もあって厳しいとは思うんですけど、きっとお嬢さんの存在が力になってくれると思うので、自宅で癒やされながら頑張って欲しいです」
先場所、髙安は終盤まで単独トップを守り、初優勝まであと一歩と迫りながら最後に力尽きた。
人々の期待を集める力士として、そして一人の父親として、飛躍をかけた15日間の土俵が明日から始まる。
(取材・文 吉村忠史/協力・横野レイコ)