地元を離れるか、残るか…繰り返す困難に立ち向かう宮城・丸森町の奮闘
FNSドキュメンタリー大賞

地元を離れるか、残るか…繰り返す困難に立ち向かう宮城・丸森町の奮闘

第29回FNSドキュメンタリー大賞

仙台放送
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地域

宮城県の南部に位置する丸森町。

阿武隈川沿いの耕野(こうや)地区で、農産物直売所を営む八島哲郎さんは、記録的な大雨をもたらした2019年10月の台風19号(令和元年東日本台風)で被災。

店舗は床上1.6メートルも浸水し、1ヵ月半の休業を余儀なくされた。生業を取り戻そうと困難に立ち向かう店主の思い。土砂災害で自宅や家族を失い、やむを得ず地元を離れる人。
地域に残る決断をした人、水害から立ち上がる人々の半年間を追った。
 

水害被害にあった「やしまや」

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2019年10月12日、大型で強い台風19号(令和元年東日本台風)が本州に上陸し、宮城県内でも猛威を振るった。

阿武隈川が氾濫し、丸森町の住宅は水浸しになり、耕野地区では土砂崩れも発生した。

丸森町では600ミリを超える雨量を観測。阿武隈川沿いにある農産物直売所「やしまや」も被害を受けた。

台風が上陸した日の午後、川からあふれ出した濁流はわずか3時間で店まで押し寄せ、店内は床上1.6メートルまで浸水した。

10月20日、断水と停電が続く中、「やしまや」を営む4代目・八島さんのもとに常連客が駆け付けた。SNSで普段から情報発信をしていた八島さんを心配し、毎日大勢の人が集まり片付けを手伝ってくれたのだ。

八島さんは「東日本大震災の津波にも負けなかった方も多い。私たちも水害に負けないで復活したいと思います。みなさんの奉仕の心に感謝したいです」と集まった常連客に頭を下げた。

「(お店を)どれだけ続けられるかわからないけど、待ってくれていて『お宅に行くとホッとする』と言われると嬉しい」と八島さんは言う。

人口約1万3000人の宮城県丸森町。
東日本台風で10人が亡くなり、今も1人が行方不明となっている。

福島県に隣接する丸森町は、県の最南端に位置し、西側の耕野地区に「やしまや」はある。

「やしまや」は今から60年以上前に、八島さんのひいおじいさんが生活用品を扱う店として始めた。その後、地域の農産物を扱い始めると、近所の人だけでなく町の外からも客が来るようになった。

「やしまや」は何度も水害に苦しめられてきた歴史がある。

今の「やしまや」は、以前あった場所よりも約6メートル高い場所に作り直したが、そこまで濁流は押し寄せたのだ。

店は再開できるのか…

「やしまや」の東、約300メートル先の山の中腹にあった家は土砂崩れに巻き込まれた。

71歳の佐藤雄一さんは「今までこういう被害に遭ったことがなく、動きが取れないというか、途方に暮れてぼう然としています」と崩れた自宅の前で立ち尽くした。

耕野地区の水位観測所はこの水害で流された。その下流にあった丸森水位観測所は普段より8メートルも水かさが増していることを記録した。

今回の水害の原因について、阿武隈川を管理する国土交通省東北地方整備局の担当者は「阿武隈川流域にはすごく雨が降りました。丸森町では、阿武隈川の本流が狭窄する、耕野地区においては川幅も狭いので水位がかなり上昇した」と分析する。

福島県の平野部では、阿武隈川の川幅は平均して400メートルほどあるが、宮城県に入ると山の間を通るため、川幅が急激に狭くなる。横に幅が取れない分、水位が上昇しやすくなるという。

そして対策については「水位が大きく上昇した区間は河道を掘削しました。流れる面積は大きくなるので、今回は水位が上がってギリギリまでいった箇所はありますが、水位を下げて堤防で安全に流れるというところまで下げることを考えている」と明かした。

11月に入ると、断水が続いていた耕野地区に簡易水道が通った。待ち焦がれた待望の水だ。「やしまや」にも約3週間ぶりに水が通った。

同じ時期、丸森町商工会議所には町内で被害を受けた商店や会社が、町全体の事業者の4割にものぼる200社近く集まっていた。ここでは役場の職員が補助金などの復旧までの支援について説明をしていたのだ。

「やしまや」の被害額は2500万円以上。店の復旧にはほぼ同額を工面する必要があった。

今回の水害で八島さんの自宅に大きな被害はなく、家族は全員無事。店の再開に集中できる状態だった。八島さんは、商工会議所の補助金を申請するなどして資金をねん出した。
 

八島さんの妻・広子さんは「台風19号のとき、(店を)再開できるか分からなかったので、どこかに引っ越すことを私は考えました。でも、絶対に“引っ越す”とは言わなかった」と夫が抱く店への思いについて明かす。

こうして店の再開に向け、次々と必要な物資が届いた。今回の水害を受け、冷蔵庫の室外機は水没を避けるため2階に置くことにした。

家族のサポートもあり店を再開

別の日には八島さんは福島県の問屋まで行き、店に置く商品を購入してきた。商品を並べる作業を手伝うのは妻・広子さんと次女のなつきさん。大学進学を機に実家を出たが、2018年から店に通い両親を支えているという。

商品を並べながらも、広子さんは「1ヵ月半以上も休んでいたので、お客さんが戻ってくるか心配です」と不安そうな表情だ。

八島さんも「元通りにするのは大変。(店に入った)泥出しだけでなく、家具の処分など。体だけでなく、精神的にもみんな疲れたと思います」と話す。

こうして水害から約50日が経過した11月30日、「やしまや」は再オープンした。

「おめでとうございます」と常連のお客さんが店に来たり、農産物の直売所でもあるため、近所の農家の方々が野菜を持ち込んできた。

再開にあたり、八島さんはやりたかったことがあった。それは、開店前の入り口の掃除をお客さんたちにやってもらうこと。

「お客さんにやってもらうことが大事。私だけの店ではないので」

再開を喜んだ客たちは、カゴにたくさんの商品を詰め込み、お店は“憩いの場”としても活気づいた。

床上1.6メートルもの浸水被害を乗り越え、「やしまは」や賑わいを取り戻した。

耕野地区で店を営む“使命”

お店を再開させた八島さんは食用品や日用品の配達も再開させた。

「『やしまや』はモノを売る商売なので、店に来られない人には届ける」と運転する八島さん。

耕野地区の高齢化率は約48%。一人暮らしや車で買い物に行けない人の家を中心に、月に140軒ほど配達するという。

「やしまや」は父・将郎さんの代からガソリンスタンドも始め、灯油などの燃料も配達してきた。

八島さん自身も高校卒業後、東京のガソリンスタンドに就職し、20歳のときに戻ってきたという。

「昔は田舎にコンプレックスを持っていました。仙台に行っても丸森出身って格好悪い気がして、言いにくかった。今はそうじゃない。自分で自信を持ってやれるようになったからかな」

ガソリンスタンドの経営は「やしまや」の大きな柱だった。しかしガソリンスタンドや店全体の経営方針では、父・将郎さんと意見が合わないこともあった。

そんな中、父・将郎さんは2019年1月に病気で亡くなる。

「一生懸命で真面目で、正義感もあった。前を向いて上を向く人だった。父親の影響も大きい」

水害に遭っても前を向き続ける自身も“父親似”だと話した。

2020年1月、耕野地区で土砂崩れに遭い、自宅が崩壊した佐藤雄一さんは、現地で自宅を再建するか悩んでいた。

「当時は壊れた部分を直して戻りたいという気持ちもあった。ただ、孤立状態になって助けに行けないと言われると別のところを探さないといけない」と複雑な心境だ。

佐藤さんは複雑な思いを抱えながらも、住み慣れた土地を離れることを決めた。

「早く解体してもらって。思い残すことはない」

こうこぼした。

町を出て行く人たちも…

佐藤さんの家を襲った土砂崩れは、その下の家にも流れ込み、一人が犠牲になった。

八巻ちゑさん、当時83歳。八島さんの父・将郎さんの同級生だった。

八島さんの母・ふみさんは「(ちゑさんと)付き合いはあったの。前の日まで一緒にいた。健康教室でご飯を食べて2人でいろいろしゃべって。近いからちょこちょこ来てて」と振り返る。

1月18日、この日ちゑさんのお葬式が行われた。亡くなってから3ヵ月が経っていた。

ちゑさんを亡くし、自宅が崩壊した八巻さん一家は、耕野から離れることを決断した。

八島さんは「駆け付けたとき、土砂が玄関まで来ていた。和室に逃げたかもしれないと思ったけど、和室には少し隙間があったので、そこに潜り込んで生きていればいいと…」と口にし、「地域も人間もズタズタにした。ここに住んで、ずっとここに住もうと思っていた人が引っ越しをするようになったり…」とやりきれない思いだ。

2月、耕野東部地区集会所では新年会が行われた。この日は隣の地区に引っ越すことを決めた佐藤さん、八巻ちゑさんの息子・辰雄さんの送別会でもあった。

八巻さんは丸森町に近い柴田町へ行くことに。

「じいちゃんの代から住んでいたから、(近所とも)親戚以上のお付き合いで。離れることに悔いは残りますが、断腸の思いです」

「集団移転」を要望したが…

耕野から東に約9キロ離れた、阿武隈川の支流が流れる五福谷地区でも、堤防の決壊や氾濫が相次いだ。

五福谷地区の民生委員・佐久間新平さんは、台風が接近した夜、住民同士で避難を呼びかけ集会所に集まったという。

しかし集会所まで水が押し寄せたため、集会所よりも高台にある近所の家に避難し、全員が無事。一方で、8世帯の集落はほぼすべての住宅が全壊した。

そのため、佐久間さんは現地での住宅再建ではなく、防災集団移転を町に要望しようと考えていた。

防災集団移転には5軒以上の同意が必要になるため、佐久間さんは仮設住宅で暮らしている住人たちのもとを訪ね、話し合いを続けた結果、7軒が移転を希望してくれたのだ。

「集団移転をなんとか成功させたい。これを成功させないと住民たちがバラバラになる。つまり、集落が崩壊してしまう。必ず成功させて集落を継続したい」

3月30日、第3回丸森町復興推進委員会が行われ、地区の代表者と町が復興計画について話し合った。

この日、佐久間さんが要望していた防災集団移転案について判断が示された。移転に必要な災害危険区域の指定範囲が広くなるため、住民合意に時間がかかるとみて、町は防災集団移転を見送るという結果に。

その上で、町独自の支援策として最大150万円の住宅購入費を補助することを決めた。

佐久間さんは移転を希望する近所の人たちと共同で土地を買い、まとまって住宅を作る方針を固めた。

水害の次は見えない“脅威”との闘いへ

「やしまや」には地域の特産品、タケノコが並ぶ。

八島さんには代々受け継いだ竹林があるが、東京電力福島第一原発事故の影響で宮城県内各地の農林水産物の放射性物質の量が多くなり、出荷制限を余儀なくされていた。

2014年に耕野地区のタケノコはようやく出荷制限が解除され、東日本大震災からの復興に弾みがついたと思われた。しかし、台風19号によって2ヘクタールもある八島さんのタケノコ畑のうち、3割の竹が枯れてしまった。

それでも3月31日、タケノコ畑を見ると、収穫を諦めていた畑からタケノコが顔を出していたのだ。

川の氾濫で大量の土砂をかぶり、痛んでしまった竹林から今年も幸いタケノコが採れた。2014年以降、現在でも採れたタケノコはすべて放射性物質の量を測定し、基準をクリアしたものだけが出荷されている。

この日採れた3本のタケノコはすべて基準をクリアした。

幾度も様々な脅威を乗り越えてきた「やしまや」。しかしこの春、全国的に感染が拡大した新型コロナウイルス感染の不安が近づいていた。

「店は開けようと思っているけど、本当は閉めたい。家族の感染リスクが高まるから。タケノコがあるうちはお客さんが来るけど、終わったらパタッと来なくなる。そのときにどうするか。来ていただいたお客さんに通販で買ってもらうとか、新しい通販の方法を考えるとか…」

1986(昭和61)年の「8.5豪雨」、東日本大震災、令和元年東日本台風、数々の災害を経験した。今度は目に見えない新型コロナウイルスという新たな脅威と向き合わなければならない。

「泣いても吠えてもコロナ前には戻らない。水害も台風も。やるしかない」と八島さんは前を向く。

「冷蔵庫の中身と同じで、ないものを探しても仕方がない。この中で何ができるかを考えないと。開けてあれがない、これがないと言っても手に入らない。ここはハンディもあるけど、ここにしかないものもあるから、それを見つけていくしかない」

以前とすっかり同じように生活することは難しくなってきた。それでも、八島さんは変わっていくことを受け入れながら、お店を続けていく。

(第29回FNSドキュメンタリー大賞『変わりゆく耕野で~宮城・丸森 東日本台風のあと~』2020年6月17日放送)

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