「渡航前に歯医者にだけは行っておけ」

とある朝、歯が欠けた、気がした。左下、前歯と奥歯の中間あたり。舌で探ると確かに穴が開いている。

かつて北京に駐在していた先輩から「渡航前に歯医者にだけは行って全てを治しておけ」と強く言われたのが13年前。それを心に刻み、この2回目の赴任を前に真っ先に向かったのも歯医者だった。

前回は無事に乗り切ったものの、今回は赴任からわずかひと月。その歯は食べ物が間に挟まりやすく普段から糸ようじをよく使っていたので、たまたま弱くなっていたのだろう、欠けた部分を埋めるだけだろうとたかをくくっていた。

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痛みは全くなかったが、ほうっておくと悪化することは間違いない。

ただ、どこの歯医者に行けばいいのか皆目見当がつかない。前任者に聞くと「あいにく歯は丈夫で歯医者とは無縁でした」、後輩に聞くと「全く知りません。仮に虫歯になっても帰国するまで我慢します」といずれも参考にならない冷たい返事だった。

結局日本人会の便りに掲載され、かつスタッフが人間ドックを受けたことがあるという理由で北京の北東部にある「ユナイテッドファミリー病院(北京和睦家医院)」を受診することにした。

予約の電話で日本語のできる歯科医をお願いしたところ、ちょうど翌日の予約がキャンセルになったということで、あっさり受診が決まった。

ユナイテッド歯科医院の入り口 看板は出ていない

日本語が堪能な中国人の歯科医

当日、受付で初診の手続きを行い、助手に促されて診察室のある2Fに上がる。スタッフは英語で話し、応対は丁寧だ。

待合室、診察室にも清潔感が溢れている。

2階の待合室 静かで清潔感がある

診察台の上に横たわると妙齢の女性が近づき「どうしました?」と上手な日本語で話しかけてきた。経緯を日本語で説明すると先のとがった器具を歯に当てて数秒、「詰めものが取れていますね」と言われた。

さっそくレントゲン室で当該箇所を撮影、戻って診察台に再び上がると、先生はその写真を見せながら「虫歯が出来て詰めものが取れたんですね」と虫歯の部分を指し示してくれた。

丁寧な対応への驚きと虫歯と聞いたショックの両方が同時に来たが、もちろん虫歯であったことのショックの方がはるかに大きい。ビザが出るまでの間に虫歯になったか、東京で受診した歯医者の見落としか、いずれにしても今さら何を言っても始まらない。

先生はその後、虫歯の部分を削って薬を塗り、人工の歯で埋めていくという、その治療法を説明した。第三者として聞けば至極真っ当な対応に納得しただろうが、当時その余裕はなかった。

診察台で虫歯と向き合った 右上は筆者の歯のレントゲン写真

高額でも逃げられない中国の事情

ここから日本の診察とは若干様相が変わってくる。

この後にされた話は料金だった。レントゲン撮影や人工の歯の費用、人件費など、諸々合わせておよそ3000元(5万円程度)。保険がきかないことはもともと知っていたが、虫歯のショックに加えて料金の高さにも驚いた。

先生の声は優しく、言葉遣いも丁寧だが内容は厳しく、何の容赦もない。「どうしますか?」と最後に聞かれたが、まさか「それではけっこうです」と帰るわけにもいかない。

「お金がないのでまた連絡します」と時間を稼ぐ手もあったが、そこは中国。携帯電話と銀行口座を紐付けられているので逃げられない。クレジットカードも使用可で万事休すだ。

診察台に寝そべり、虫歯の写真を直視させられている状態というのは、かくも人間を弱い立場に追いやるものかと初めて思った。覚悟を決めて「よろしくお願いします」と言うと早速治療が始まった。

歯茎の外と内に注射を打って麻酔をかけられた。やはり針を体内に刺すのは緊張する。「頼むからしっかり効いてくれ。でも効き過ぎても困る」という複雑な心境に陥る。この後サプライズがきた。

なぜチョコレート?

麻酔が効いてきて歯を削り始める頃だったと思う。

急に口の周りにチョコレートの甘い香りが漂ってきた。リップクリームを塗られたのである。口を開けたままなので、文字通り「開いた口が塞がらない」状態でいると先生が「味がないのもありますが、今日は特別にチョコレート味です」などと話しかけてきた。

治療後に聞いてみると口を開けたままでは唇が乾燥するので、中国では治療中にリップクリームを塗るのが習慣になっているそうだ。子供にはチョコレート味をよく使うそうだが、大人の私になぜ塗られたのか、何が特別だったのかは謎のままである。

チョコ味のリップクリーム(右) イチゴ味(左)もあるようだ

チョコレートは嫌いではないが、歯を削る独特の匂いは消えない。というか歯の治療中にチョコレートの香りがしても嬉しくない。全く両立しない2つのにおいに包まれたまま、私の歯は容赦なく削られていく。

先生は日本語で時おり話しかけてくれるが、助手との会話は当然中国語だ。専門用語が続くだけに当然理解できず、また理解しようとも思わず、何故か頭は「日本語が出来るからといってその先生が上手かどうかはわからない」などと考えていた。

日本語が出来る医師を選ぶというのは、腕の良し悪しではなく、自分が安心できるだけの説明を受けたいだけなのだということを痛感した。他のどの先生が上手だとか、評判が良いかということも北京ではわからないのだから、「せめてそれくらいは」という切なる願いなのだろう。

コミュニケーションが出来ない人間とはつくづく弱い生き物だと思ったが、仮に中国語を自在に操れたとしても、歯科医に限らず、どの医者が優秀かはわからない。それは日本もほぼ同じだろう。

麻酔は効いていたが「痛いような痛くないような、でもちょっと痛い」微妙な感覚に耐え、人工の歯を詰めて削り、噛み合わせを確認し、治療はようやく、何とか、無事に(?)終わった。

正確に計っていたわけではないが40分から50分程度。恐ろしく長く感じた。

歯の高さが若干違うけど・・・

「このまま痛くならなければ大丈夫です」という先生の言葉を嬉しく思いつつ、いつからか芽生えた、この体験を記事にしようという思いを先生に伝え、写真の撮影を許可していただいた。

先生に記念撮影をお願いすると「髪が乱れているので・・」と言って恥ずかしそうに手櫛で直す姿が可愛らしく、印象的だった。この歯科医院で日本語を話せるのは彼女だけだそうで、日本人の予約でかなり多忙だという。

筆者の歯を治療した呉建さん(左) 日本語が堪能だ

さて、肝心のその後だが、今のところ歯が痛むことはない。

もともと痛くなかったのだから、具体的に何が良くなったという実感はないが、痛くないのは何よりである。

時折患部(だった場所)がだるいような、重いような感覚を覚えることもあるが、気のせいかもしれない。敢えて言うなら歯の高さが若干高い気がする。食べるときにそれを感じるが、かといって我慢できないほどではなく、今ではもう慣れた。

人生何事も経験だとは言うが、この経験が良かったと言い切るまでにはもう少し時間が必要だろう。ただ、得がたい経験であったことは間違いない。

チョコレートの香りがする中での歯の治療。好みもあるだろうが、私はおすすめしない。

【執筆:FNN北京支局長 山崎文博】