1908年以降、日本政府が日本全国よりブラジルへの移民希望者を募り、100年間で約13万人の日本人がブラジルに移住した。

夢と希望を抱いて渡ったブラジル移住だが、待っていたのは過酷な労働と低賃金という現実だった。そこで信州人が中心となり原生林を切り開いて作ったのが「アリアンサ」という村。

前編ではブラジル移民と長野県との縁、そして長野県から派遣された日本語教師を通して信州とアリアンサの今と昔を追った。後編では、ブラジルから長野県へ移住した日系人の女性が自身のルーツをたどっていく。

(全2回、#1はこちら)

長野は“第2のふるさと”

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長野県佐久市で外国人の相談アドバイザーを務める、日系三世の賀沢マリア祐恵さんにとって、長野は“第2のふるさと”だ。

ブラジル・サンパウロで結婚したマリアさんは、日系人の夫の転勤で25年前に移住した。

マリアさんはアリアンサの隣町で生まれた。両親はともにブラジルに渡った日本人。父親は長野県出身で母親は山梨県出身だ。

「小さい頃に父が日本の思い出話をしているのをいつも聞いていて、一度は日本に行ってみたいと思い、日本語学校にコツコツ通っていました」

学生時代には海外技術研修制度を利用して長野市へ来たこともあるという。

サンパウロの長野県人会に集まった日系人たち

今回、ブラジル移民や自身のルーツをたどるため、ブラジルへと渡ったマリアさん。訪ねたのは、サンパウロにいた頃にお世話になった在長野県人会だった。この会は、長野県との友好活動やイベントの企画などを行っている。今は、移民第1世代が少なくなる中で、今後この会をどう存続させるかが課題となっているという。

在ブラジル長野県人会副会長・大島紘邦さん

日系二世でこの会の副会長を担う大島紘邦さんは、「かつて社会科の先生が言っていました。あと30年もすれば、ブラジルにおける日系社会は名前だけだと。混ざってきて残るのは名字だけ。そういうお話を聞いていたので、やっぱり県とのつながりができればいいなと思っています」と話す。

父から聞く“移民”の話

次にマリアさんが向かったのは、サンパウロ市内にあり、日系人が活躍している日伯友好病院。

この病院で内視鏡の専門医として働く、弟の宮島ネルソン富夫さんを訪ねるためだ。

院内のドクターの6割は日系人で、ネルソンさんも研修制度を利用し、日本の国立がんセンターや長野県佐久総合病院などにも何度か訪れている。

マリアさんが小さい頃は、両親と日本語で話していたが、きょうだいとはポルトガル語だったという。一歩外へ出てもポルトガル語だったため、あまり日本語を使う機会がなかった。

会話には困らない程度で日本語を話すことができるネルソンさんも「もうちょっと日本語を勉強しておけばよかった。でも、これだけでも日本語を話せて、日本に内視鏡の勉強に行くことができてよかった」と明かす。

勤勉な日本人はブラジル社会において、大きな信頼を得てきた。そして現在もさまざまな分野で日系人が活躍している。

そしてマリアさんは両親に会うため、アリアンサの隣町、ペレイラ・バレットにも足を運んだ。

両親と食事をするマリアさん

父の宮島兄夫(しげお)さんは1937年、7歳のときに家族とアリアンサに入植。その後、戦争による治安悪化のため一度は帰国したが、24歳で再びブラジルに渡り、畜産の仕事で生計を立ててきた。

アリアンサから隣町に引っ越して、妻・君枝さんと結婚し、4人の子どもに恵まれた兄夫さん。当時は原生林で覆われていたという農地を開拓し、現在は340ヘクタールの畑でサトウキビを栽培している。

「無我夢中でした。1日中トラクターに乗ってガタガタやっているからお尻が痛い。ご飯を食べるときは立って食べたりしていました。3年くらいは日本が懐かしくて泣いたり、夢を見ていました」

異国の地で苦難を乗り越えてきた兄夫さんは「絶対に負けんぞ!」と奮い立たせながら生きてきたという。

こうした話を聞きマリアさんは「父はあまり苦労したことなどを話さなかった。でも、いろいろな苦労があったんだなと思いました」と感慨深げに話した。

“理想的な場所”だからこそ今もある

そして、マリアさんは「アリアンサ」と命名した輪湖俊午郎さんの息子も訪ねた。

日系二世の輪湖光明さん、84歳(取材時)。

父・俊午郎さんは松本市で生まれ、15歳で英米研究のために渡米。新聞記者を経験し、その後ブラジルに渡り、アリアンサの開発に携わった。

アリアンサ開設後に生まれた光明さんは、父親の仕事ぶりはあまり見聞きしたことがないという。

「度胸の良いおやじでした。アリアンサの土地を購入するとき、長野県からの資金が滞り、現地のブラジル人に脅されたといいます。包丁を持って“輪湖を殺す”ってきたけど、『俺を殺したからって金は出んぞ』って言ったといいます」

アリアンサ

入植した一人一人の先人の力によってできた移住地、アリアンサ。さまざまな苦難を乗り越え、開拓した信州人の思いが今もこの地に根付いている。

今でも長野県とゆかりのある人々が暮らす村の生活は、ときには日本語が飛び出し、演歌を歌うこともある。

アリアンサ開設から100年が経ち、日系一世も少なくなった。日系二世以降は日常生活ではポルトガル語が中心で日本語を使う機会は少ない。両親のどちらかがブラジル人というケースも増え、「ルーツが日本」という意識が薄くなっている。

気候が暖かく、陽気な国ブラジルの生活を満喫する日系人だが、いつまでも心の底にあるルーツ、日本への思いを忘れないよう、日々努力している。

(第29回ドキュメンタリー大賞『ブラジル・アリアンサに立った信州人』)

【前編】ルーツは“日本”だから。信州人が開拓したブラジルの村に日本語教師が派遣されるワケ