日本にも遂にキャッシュレス時代の波が押し寄せている。
PayPayやLINE Payなどのスマホ決済サービスが大々的なキャッシュバックキャンペーンで注目を集め、消費税導入に伴う消費の落ち込み対策としてキャッシュレス決済へのポイント還元サービスも予定されている。

キャッシュレスで日本のはるか先を行くのが中国だ。生活の隅々にまでスマホ決済が浸透し、それに伴う新ビジネスが次々に生まれ中国社会を激変させている。

なぜ、中国でキャッシュレスが急激に普及したのか?
キャッシュレス化が進むと一体何が起きるのか?

『キャッシュレス国家 ~「中国新経済」の光と影』(文春新書)の著者、西村友作氏に聞いた。

財布を持たないで生活

中国の首都・北京市の北東部に位置する対外経済貿易大学は、中国でも有数の名門大学だ。西村さんは同大学初の日本人教授として教鞭をとり、中国生活は18年に及ぶ。実際に新サービスを体験しながら、キャッシュレスが生活に浸透していく過程を目の当たりにしてきた。

西村さんによれば、スマホ決済が増えたのは2014年頃からで、街中の至る所でQRコードを目にするようになった。

スマホでの決済方法は二つ。
1:店側が専用スキャナーで客のスマホに表示されたQRコードをスキャンするか、
2:客が自分のスマホで店側のQRコードをスキャンする。

2の場合、決済用QRコードをプリントアウトしてお店に貼り付けるだけ。コストをかけずに手軽に導入できることから、屋台や露天商にまで瞬く間に普及した。

道端で演奏する大道芸人のおひねり入れにもQRコードが貼られているほどだ。

屋台の荷台にもQRコード (写真:西村友作氏撮影)
屋台の荷台にもQRコード (写真:西村友作氏撮影)
この記事の画像(8枚)

今や、生活に欠かせない「買う」「食べる」「移動する」「遊ぶ」のあらゆるシーンでキャッシュレス決済が当たり前になっているという。

「支払いは全てスマホで済んでしまうので、現金を使うことはほとんどありません。財布を持たなくなりました。」(西村氏)

通勤で使う乗り物も、食事や買い物も支払いは全てスマホでこと足りる。友人同士の割り勘もスマホのアプリで簡単にやりとりできる。財布が要らない代わりに、スマホを忘れたり、電源がなくなったりするとお手上げだ。ごくまれだが現金しか使えない事態に備えて、西村さんはいつも100元札をカバンに入れるようにしているそうだ。

キーワードは「信用」

中国のキャッシュレス化はいつ、どのように始まったのか。

「キャッシュレスの出発点はネットショッピングです。中国の電子商取引(EC)のパイオニア・アリババが独自のオンライン決済システム・アリペイを開発したのが契機になっています。これは、購入者と販売者の間にアリペイが入って取引の安全性を保証したもので、利用者が安心してショッピングが楽しめるようになりました。」(西村氏)

それまで中国にはクレジットカードが普及しておらず、銀行振込も簡単ではなかった。利便性が高く信用が担保されたシステムができたことで、ネットショッピングは急成長し、オンライン決済が定着した。その後、スマホが爆発的に普及すると、オンライン決済の場はパソコンからスマホへと移行した。

スマホ決済拡大の起爆剤となったのは、10億人が利用するチャットサービスWeChatを運営するテンセントがWeChatに決済機能をつけたことだ。

テンセントは「あらゆる店のレジに自社のスマホ決済専用の二次元バーコードを貼り付けた」人海戦術に加え、大プロモーションを展開した。

「中国ではお年玉やご祝儀のことを紅包(ホンバオ)というんですが、これをWeChat上でやり取りできるようにしたんです。特にグループチャットでホンバオ争奪戦ができるようにしてゲーム感覚で楽しめるようにしたのが当たりました。遊んでいるうちにWeChat内のウォレットにお金がたまる。試しに使ってみたら便利なので、日常的にも使うようになった。そんな感じで徐々に広がっていったのです。」(西村氏)

それまで、中国社会は性悪説を根底にしていた。

言わば、他人からだまされたり、不利益を被らないよう“常に注意していなくてはならない社会”だったのが、キャッシュレス化は中国の人々の信用に対する意識を大きく変えた。

芝麻(ジーマ)信用の信用スコアの画面 (写真:西村友作氏撮影)
芝麻(ジーマ)信用の信用スコアの画面 (写真:西村友作氏撮影)

その一つが信用スコアだ。

アリババ系の「芝麻(ジーマ)信用」など、中国では個人情報や信用履歴などのビッグデータを元に個人や企業の信用スコアを算出するサービスが広がっている。高得点のユーザーは様々な特典を受けられる一方で、クレジットカードや、決済サービスの支払いなどで延滞があると、スコアが下がってしまう。最悪の場合はスマホ決済などのサービスが一切使えなくなるため、日常生活に大きな支障をきたす。

「芝麻信用」が個人の信用度を格付けする指標として中国社会に定着し始めたことで、多くの人が信用を落とさないよう行動することを意識し始めた。一方、中国政府も民間から得た信用情報を社会統治のシステムに組み込み、社会の安定を図ろうとしている。ネット上から生まれた信用意識の高まりが、中国社会をどう変えていくのか、目が離せない。

キャッシュレスの光と影

なぜ中国では、キャッシュレス決済とそれを前提にした「新経済」がいち早く普及したのか?

西村氏はこう見る。
「一つは政府の支援。中国語で創新(イノベーション)を進めるため、ヒト、モノ、カネが集まる政策を推し進めています。次にリスクを恐れず、挑戦する人材がいる。そして重要なのが、社会問題がイノベーションを生み出すということなんです。」

一般市民が不便、不安と感じる社会問題が数多く存在するがゆえに、それを解決することがビジネスチャンスにつながっているというのだ。

例えば、都市部の「タクシー難民問題」。

料金規制などにより通勤ラッシュ時や雨の日などはタクシーがつかまらず、市民を悩ませていたが、タクシーの配車サービスの登場で大きく改善した。さらに、需給に応じて価格を変動させる「ダイナミック・プライシング」などが導入され、タクシーが全くつかまらないという状況はなくなった。危険な白タクも激減したという。

また、食の安全の問題では、「ワイマイ」と呼ばれるスマホを利用した料理のデリバリーサービスにユーザーの評価機能がついたことで、食品の質や味、店の衛生状況などが可視化され、サービスが格段に向上した。買い物代行などサービスの範囲も拡大している。

キャッシュレス化は利用者に大きなメリットをもたらしたが、一方で課題も浮上している。

中国では生活に欠かせないシェア自転車
中国では生活に欠かせないシェア自転車

西村氏が懸念するのは「人手不足」だ。
「シェア自転車、デリバリーサービス、無人コンビニなど新ビジネスの多くが、実は“農民工”と呼ばれる農村からの出稼ぎ労働者によって支えられています。先端技術だけでは成り立たない、「安価で豊富な労働力」を生かした「労働集約型モデル」なんです。」

14億人の人口を抱える中国だが、一人っ子政策で若者の出生率が低下しているだけでなく、高学歴化が進みブルーカラーの労働者が減少している。このまま人件費の高騰が続けば、西村氏は「労働集約型の中国モデルはいずれ崩壊する」と見る。

デジタル格差の問題も深刻だ。高齢者などスマホを使えない人たちは、キャッシュレスの恩恵を受けられないばかりか、より不便な生活を強いられかねない。また、新サービスの多くは中国人ユーザー向けで外国人対応していない、もしくは外国人には使うのが難しいものが多い。

デリバリーサービスではプラスチックゴミや、配達に使われる電動バイクによる事故の増加が問題となっているし、QRコードを差し替えて代金をだまし取るなど新手の犯罪も出現している。

プライバシーへの懸念

無人コンビニも普及
無人コンビニも普及

日本ではキャッシュレス化の進展が個人情報の流出や、不正利用につながるのではと警戒する人が多い。中国では個人情報を提供することに不安はないのだろうか。

西村氏の疑問に中国人の教え子たちはこう答えたという。

「彼らの言葉を借りると、情報を与えることによって、安心して安全に暮らせるようになるならいいのではないか。それも一つの選択肢としてあるのではないか。そう言っていたのが印象的でしたね。監視社会っていうと日本人は悪い方に捉えますが、居づらくなるのは犯罪者で、真っ当に生活している人が生きやすい社会になるのならいいじゃないか、と。」

西村氏によると、中国の学校では登下校の際、門の周囲に送り迎えの親達が詰めかける風景がお馴染みだという。児童誘拐が心配なため、送り迎えは欠かせないのだ。だから、監視カメラの設置も「我が子を守ってくれるならいい」と考える人が多いという。

「もちろん、個人情報を知られるのは嫌な人もいますが、中国にはこうした社会問題が多く、個人情報と引き換えに得られる安全や安心の幅が大きい。だから、受け入れやすいのかも知れません。日本のように元々安全で安心なところは、個人情報と引き換えに得られるベネフィットが小さいので、警戒や懸念が先に立つのではないでしょうか。」

中国から見える日本の未来

支払いはオンライン決済
支払いはオンライン決済

キャッシュレス決済と新ビジネスの誕生で大きく変貌する中国。
壮大な社会実験ともいえる中国の現状から、日本人は何を学ぶべきなのか。

「この本を書いた一つの理由として、中国で起こっている現状を知ることによって、日本の未来を想像できるのではないかと思ったんですね。だから、特に若者に読んでほしいと思います。そして、自分たちが日本で今後どういう社会を作っていきたいのか、考えて欲しいのです。この本を読んで興味を持ったら、ぜひ、実際の中国を見に来て欲しい。実際の姿を把握した上で、日本はどう進んでいくのか、将来どういう風になっていけばいいのか、日本の未来を考えるきっかけになればいいなと思っています。」(西村氏)

発展を続ける中国「新経済」。
その姿は未来の日本にも通じる。

「どんなものにもメリット、デメリットがありますが、中国で生活する上でキャッシュレスはメリットの方が大きいと感じています。変化の波が押し寄せている今は、技術や経営理念など有形無形の資産を持つ日本企業にとっても大きなビジネスチャンスだと言えます。」(西村氏)

【執筆:フジテレビ 報道センター室長兼解説委員 鴨下ひろみ】

「キャッシュレス時代の“お金”」すべての記事を読む
「キャッシュレス時代の“お金”」すべての記事を読む
西村友作氏著書「キャッシュレス国家 中国新経済の光と影」
西村友作氏著書「キャッシュレス国家 中国新経済の光と影」
鴨下ひろみ
鴨下ひろみ

「小さな声に耳を傾ける」 大きな声にかき消されがちな「小さな声」の中から、等身大の現実を少しでも伝えられたらと考えています。見方を変えたら世界も変わる、そのきっかけになれたら嬉しいです。
フジテレビ客員解説委員。甲南女子大学准教授。香港、ソウル、北京で長年にわたり取材。北朝鮮取材は10回超。顔は似ていても考え方は全く違う東アジアから、日本を見つめ直す日々です。大学では中国・朝鮮半島情勢やメディア事情などの講義に加え、「韓流」についても研究中です。