1908年(明治41年)に、日本からブラジルへの移民が始まり、約25万人が海をわたった。

そして今、移民の国・ブラジルで日本文化が広く受け入れられている。そこには、ブラジルで故郷を思い続けてきた男性の奮闘があった。

前後編でブラジルの地から日本文化と向き合っていく2人の男性を追う。前編では、日系1世の男性の姿を通して、日本文化の在り方を見つめていく。

(全2回、#2はこちら)

“日系人である”と意識しない人も…

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日系1世の川合昭さん、84歳(取材時の年齢)は、ブラジル・サンパウロにあるブラジル秋田県人会会長(取材当時)を務めている。2020年5月には顧問に就任した。

ブラジル秋田県人会は、秋田県出身者と故郷のつながりを維持し、さまざまな活動を通して親睦や教育を図る団体として、1960年に発足。

汗と涙にまみれた異国での暮らしの中で、会員の大切な心の拠り所だった。川合さんも県人会を通して、故郷・秋田と太い絆を持ち続けることができた。

そんな川合さんが、自らの人生を重ねて誇り高く思っているというイベントがある。サンパウロ市最大のイベント会場、サンパウロ・エキスポで開かれた「日本祭り」だ。

世界中から移民を受け入れ、多種多様な文化にあふれるブラジルで、日系人が築いた信頼の証といえるイベントでもある。

1998年にはじまった日本祭りは、2019年7月に行われた第22回も3日間で約19万人が訪れた。

現地の日系団体が自ら企画・運営し、日本文化を紹介するイベントとして世界最大規模を誇っている。

秋田県人会が第1回から販売しているのは、秋田名物のきりたんぽ。毎年、大人気のきりたんぽには、秋田県人会の深い思いが詰まっている。

2019年の日本祭り前日、ブラジル秋田県人会館では、この日集まった20人余りで450人分のきりたんぽを作った。

サンパウロから400キロ離れたクリチバという町から、日本祭りのために県人会の会員が育てたネギが届く。届けてくれた女性の父親は秋田出身だという。

160キロ離れたソコホからは欠かせないセリも届いた。

そして、きりたんぽに使わているお米は、秋田の代名詞ともなる「あきたこまち」。一本、一本、秋田杉のくしに巻き付け、ブラジルの名産のシュラスコを焼く設備で丁寧に焼いていく。

川合さんは「あきたこまちのきりたんぽ」が、自分のルーツが「日本」にあることの認識につながり、自分のルーツを確かめる貴重な存在になってきたと話す。

「日系人としてブラジルの多種多様な民族の中に埋もれたくない。自分のアイデンティティーを見せたいという意地があります。意地があっても、軸になるものがなかった。

そして、(きりたんぽが)ブラジルの日系人、ひいては南米の日系人をまとめる力になるのではないか、という希望を持っている。うまく育てられれば、日本祭りを中心に南米の日系人がまとまるのではないかと思う」

この日本祭りについて川合さんは、「ときどき、感無量になる。最初は、12、3の県人会がとりあえず何かを出して、1年限りでやめるつもりだった。そして、4回目で失敗して多額の借金を負った。それで5回目はやらないことに決めた」と振り返る。

しかし、ブラジル人に日本文化を知ってもらいたいという日系人の熱意が、今日の盛大な日本祭りに発展させた。

現在、日系人はブラジルの人口の1%。すっかりブラジル社会に溶け込んだ日系人も6世が誕生する時代を迎えた。そのため、“日系人である”ということを意識しない人も増えているという。

こうした影響もあり、県人会に魅力を感じない人が増え、会員も減少傾向にある。そこで、会を維持するため、秋田にルーツのない人や日本文化に興味を持っているブラジル人も会員に迎え入れるということもしているのが、現在の県人会の形だ。

定住の地は秋田とブラジルだけ

川合さんは自らの生い立ちをこう明かす。

「2歳から5歳まで満州にいた。蒙古政府ができて、そこで働く親父について行った。原爆が落ちた3ヵ月半後、長崎に1週間いた。長崎には何も残っていなかった。走っていたのは、アメリカの小型四輪駆動車だけ」

終戦後は家族で秋田に移り住んだ。高校を卒業して秋田で就職したが、1961年に25歳でブラジルに移住。資源が豊富で将来性のある国に人生をかけた。

「定住の地は秋田とブラジルだけ。秋田が14、5年。ブラジルは60年」と川合さんは振り返る。

日本からブラジルへの移住が始まった1908年。以来、約25万人が海を渡り、多くは農業に従事した。勤勉・真面目・正直な日本人はポルトガル語で「ジャポネ―ス・ガランチード(信頼できる日本人)」と呼ばれ、ブラジル社会で信用を得た。

あくせくした日本の生活がイヤだったという川合さんは、ブラジルに移住後、最初は養鶏場で働いていたが、やがて大都市・サンパウロで会社勤めをするようになった。

戦後の生活が苦しい日本に見切りをつけ、多くの人がブラジルに渡ったことで、次第に47都道府県すべての県人会が発足した。言葉や文化、習慣などあらゆることが日本と全く違う国での生活を同郷の人々が支え合っていた。

ブラジル秋田県人会は、多いときで471人の会員がいたが、現在は167人。県人会の活動に魅力を感じない若者の増加による会員の減少が大きな課題になっている。

ブラジルに住む川合さんの姿は、日本人よりも日本人らしいという印象だ。日本人としてのアイデンティティーを大切にして生きてきたことが伝わってくる。

川合さんは会長就任以来、ブラジル秋田県人会館に泊まり込んで業務にあたっている。急な連絡があってもすぐに対応するため、24時間を捧げてきた。その期間は10年。自宅に帰るのは、月にたったの数日だけだという。

もっと日本の文化を大事に

サンパウロ市民の憩いの場・イビラプエラ公園に、日本からの移民の歴史を刻む場所がある。

川合さんは、この公園の一角にある開拓先没者慰霊碑に案内してくれた。この場所は、2018年、日本人移民110周年でブラジルを訪れた秋篠宮家の長女・眞子さまも献花に訪れている。

「宗教的なこともあり、周りのブラジル人に影響を与えないため、拝むところは目立たないように半地下にしています」

慰霊碑は1975年に建立され、日本からの移住者たちが眠っている。川合さん曰く、そのほとんどが無縁仏だという。

「(初期の移民は)楽しいことなんてなかったんじゃないですか。戦後の移民は割と苦労は少ないと思います」

7月には、サンパウロで七夕祭りも開かれた。日本祭りと同じように日系人の団体がお国自慢の祭りを披露している。

川合さんは毎年この祭りを訪れている。ブラジルでの月日をともに重ねてきた仲間と日本文化に誇りを持ち、日本文化を大切にしてきた。だからこそ、川合さんには訴えたいことがある。

「日本の文化は優秀で奥が深い。日本人が大事に育ててきて、磨きに磨きをかけて立派な日本文化にしたから今の日本があるし、その恩恵を受けて、僕らも日本祭りで日本文化をベースに伸びてきた。私は日本の人に言いたい、『もっと日本の文化を大事にして』と。

言葉だけではなく食べ物なども含めて、体に染み込んでいるから。文化は人間そのもの。もう一度、日本人はよく考えてほしい。文化は大事。日本人が今の日本の文化を大事にして育てていかないと、“日本たるもの”がなくなってしまう」

ブラジルで日本の文化を愛しながら生きてきた川合さん。長い間、日本人としての魂を燃やし続けてきた。

後編では、ブラジルに移住した日本人のための“味”を今につなぎ、深い縁で結ばれた日本の若者の姿を追っていく。

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(第29回FNSドキュメンタリー大賞『あきたこまち ここにあり』前編)