今からおよそ30年前、昭和最後の年から平成にかけて東京・埼玉で相次いだ幼女連続誘拐殺人事件。

日本中を震撼させたこの事件で、遺族の自宅に殺害した少女の遺骨を送り付け、遺族のみならず新聞社にまで犯行声明文を送るなど“劇場型”ともいえる犯罪を行ってきた犯人…逮捕当時26歳の男、宮崎勤元死刑囚とはいったい何者だったのか。

まず宮崎元死刑囚が起こした4つの誘拐殺人事件はどういったものだったのかを振り返る。

 
 
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第一の事件

1988年8月22日、午後3時過ぎにAちゃん(当時4歳)が自宅から外出した。
宮崎元死刑囚は埼玉県入間市の歩道橋で「涼しいところに行かないかい」などと言ってAちゃんを自動車に乗せて誘拐し、午後6時半頃、五日市町(現あきる野市)の山林で首を締めて殺害した。

同じ頃、Aちゃんの行方がわからないことから母親が110番通報。
身代金目的誘拐事件の可能性があるとして、その日の夜に所轄の狭山署員が私服に着替えて自宅に秘匿潜入し、脅迫電話に備えて録音機設置するなどしたが、電話はなかった。

翌日、埼玉県警本部から捜査一課員も招集されたが電話はなく、周辺の捜索など行ったものの手掛かりが無かったことから、狭山署内に「入間市春日町内における幼女失踪事案捜査班」を設置、公開捜査に切り替えた。

宮崎元死刑囚はその頃、遺体の様子をビデオで撮影していた。

 
 

第二の事件

1988年10月3日、午後3時ごろBちゃん(当時7歳)が行方不明になった。
宮崎元死刑囚は第一の事件と同じように、埼玉県飯能市の路上でBちゃんに「道がわからなくなったのでおしえてくれるかい?」などと話し、車に乗せ誘拐。
その後、午後5時ごろ、五日市町の山林で首を締めて殺害した。

午後10時40分、Bちゃんが帰ってこないことから、父親が110番通報。
Aちゃんとの失踪事件との関連や、身代金目的誘拐事件の可能性があるとして、その日の夜、所轄の飯能署員が私服に着替えて自宅に秘匿潜入し、脅迫電話に備えて録音機設置するなどしたがやはり電話は無かった。
埼玉県警本部から捜査一課も招集されたが、そのまま動きはなく、翌日にはAちゃん事件と同様に捜査班が設置され公開捜査となった。

第三の事件

1988年12月9日、午後4時30分ごろ、宮崎元死刑囚は川越市でCちゃん(当時4歳)に「あったかい所によっていかない?」などと言って車に乗せ誘拐した。
名栗村(現飯能市)の県立少年自然の家まで移動し、Cちゃんを全裸にして写真を撮ったが泣きやまないため、午後7時過ぎ、首を絞めて殺害、その後遺体を山林に捨てた。

遡ること数時間前、母親はCちゃんの行方がわからないことから、110番通報をしていた。
埼玉県西部で3人目の行方不明事案ということもあり、Aちゃん、Bちゃんの事件と同じく、川越警察署からC宅に署員が秘匿潜入、脅迫電話の警戒で録音機を設置したが、連絡は無かった。
埼玉県警は、わずか半年で3人の少女が行方不明となる異常事態に「幼女連続行方不明事案総合対策本部」を設置した。

12月13日、県立少年自然の家の職員が施設付近の河原でCちゃんの着衣などを発見。2日後、職員は警察に通報し、警察が秘匿で捜索を開始。
名栗村地内の山林から全裸で手足を縛られた状態のCちゃんの遺体を発見し、県警は川越署、飯能署に「Cちゃん誘拐殺人事件合同捜査本部」を設置することとなる。

 
 

世間を恐怖に陥れた卑劣な行為

宮崎元死刑囚は3件の犯行後、AちゃんとCちゃんの自宅に、本や新聞の文字をコピーしたものを切り取り、「魔がいるわ」や「◯◯(少女の名前) かぜ せき のど 楽 死」と書かれたはがきを送りつけた。
翌年には、Aちゃんの遺骨を自宅に持ち帰り、裏庭で頭蓋骨を破砕したうえ遺体を焼き、<◯◯(少女の名前) 遺骨 焼 証明 鑑定>と書かれた紙片と遺骨をダンボールにいれて、2月にAちゃんの家に届けた。
その後2月10日、Aちゃん事件に関する「今田勇子」の名で犯行声明文が朝日新聞東京本社に届く。

その内容は、常軌を逸したものだった。

犯行声明
Aちゃん宅へ、遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です。
この、Aちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人がしたことです。
私が、ここに、こうして真実を述べるのには、理由があるからです。
まず、あの段ボールに入った骨は、明らかにAちゃんの骨です。
その証かしを立てます。
まず、どうやって連れ去ったかを述べましょう…
〈中略〉
あの骨は、本当にAちゃんなのですよ。


その翌日、同じ犯行声明文がAちゃん宅にも届いた。

Aちゃんの葬儀が行われた3月11日には、「今田勇子」名の告白文が朝日新聞東京本社とAちゃん宅に届く。

告白文
御葬式をあげて下さるとのことで、本当に有難うございました。
御陰様で、私の子、共々、やっと「お墓」に葬ってやれることができました。
〈中略〉
私は、神に斗いを挑まなくてはなりません。
神に対し、「15年は捕まりたくない」といウ「願い」をぶっつけて、「私の会いたい子供に私は会いたい」という「望み」を死守するつもりでおります。
人間が、神と斗う術は、それしかありません


15年とは当時の殺人罪の公訴時効である。世間は騒然とし、メディアも連日報道合戦を繰り返し、宮崎元死刑囚自身も報道を注視していたという。

 
 

第四の事件

1989年6月6日午後6時ごろ江東区東雲の団地に住むDちゃん(当時5歳)が行方不明に。
宮崎元死刑囚はDちゃんに「写真を撮らせてね」などと話しかけ、これまでと同様に車に乗せ、午後6時20分ごろ、近くの駐車場で首を締めて殺害した。
その後、遺体を自室に運び込んでビデオ撮影するなどして、その2日後、宮崎元死刑囚は自宅で体をノコギリなどで切断。6月10日に飯能市の霊園や五日市町の山林などに投棄した。

Dちゃんの母親は行方不明となった日の夜、交番に届け出た。
警視庁でも、身代金目的誘拐事件の可能性があるとして捜査をしていたが、埼玉の事件との関連も考え、事故と事件の両面で捜査を進める事となった。

6月11日、埼玉県飯能市内にある宮沢湖霊園内の簡易トイレの裏側で首、両手足が切断された幼女の全裸遺体が発見された。
警視庁は、死体がDちゃんである可能性が高いとみて捜査にあたり、司法解剖後胃の内容物が直前の昼食内容と一緒で、血液型、右膝下のアザ、死後経過時間、遺族の確認などから死体はDちゃんと確認された。

相次ぐ少女の誘拐と遺体の発見に世間は恐怖し、警察はわいせつ事件の被疑者を片っ端から調べるという地道な捜査を続けていくこととなる。
 

宮崎勤の肉声を入手

宮崎勤とは一体何者だったのだろうか?
部屋には大量のビデオ、雑誌、漫画。“今田勇子”の告白文。
「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」「少女の遺体を焼いて食べた」などの発言…
幾度となく精神鑑定が行われ、その一挙手一投足が注目された。
当時の報道・ワイドショーは戦後の犯罪史上類を見ない劇場型犯罪を大々的に報じたが、彼の本当の姿を知ることはできなかった。

昭和と平成をまたいだ事件「東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件」発生から30年目を迎えた今年…フジテレビ報道局が空前のスクープを独占入手。
今まで誰の目にも触れることのなかった、宮崎勤元死刑囚の「肉声」をテレビで初公開するという。

そこからは、これまで私たちが持っていたイメージを大きく覆す、宮崎元死刑囚の意外な人物像が見えてくるということで、関係各所への徹底取材を元に、当時の報道やワイドショーの映像も使用しながら「刑事の戦い」をドキュメンタリードラマ化している。


(執筆:editors room)

プライムオンライン編集部
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FNNプライムオンラインのオリジナル取材班が、ネットで話題になっている事象や気になる社会問題を独自の視点をまじえて取材しています。