今からおよそ30年前、昭和最後の年から平成にかけて東京・埼玉で相次いだ幼女連続誘拐殺人事件。
日本中を震撼させたこの事件で、遺族の自宅に殺害した少女の遺骨を送り付け、遺族のみならず新聞社にまで犯行声明文を送るなど“劇場型”ともいえる犯罪を行ってきた犯人…逮捕当時26歳の男、宮崎勤元死刑囚とはいったい何者だったのか。
逮捕され犯行を自供する様子と裁判で争われたこととは?

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第五の事件と宮崎の逮捕

1989年7月23日、東京・八王子で少女(当時6歳)がまた誘拐され、全裸にして写真を撮ろうとしていた男が逮捕される。
男は少女に「写真を撮らせてくれない?」などと話しかけ、写真を撮影した後、「川の方にいってみよう」などと自分の車に誘い誘拐し、人目につかない場所でビデオで撮影していたところ、警察に取り押さえられた。

その男こそ、宮崎勤元死刑囚だった。

宮崎元死刑囚は強制わいせつなどの罪で起訴され、2勾満期が近づいていた8月9日、ある捜査員の取り調べを受けることとなる。

当時警視庁捜査一課は、少女を狙ったわいせつ事件の被疑者を片っ端から取り調べていた。
宮崎元死刑囚の取り調べもその「つぶし」の対象の一人にすぎなかった。

取り調べの中で趣味は写真を撮ることだと語った宮崎元死刑囚。
その中で「有明テニスの森公園に行ったことがある」という発言をした際、捜査員の脳裏には6月に起きた江東区に住むDちゃん殺害事件がすぐに浮かんだ。
捜査員はこの瞬間目の前の男が犯人ではないかと思い始めたという。

「今までやった悪いことを全部話してみてよ」と話す捜査員に対し、宮崎元死刑囚は、幼少のころにおねしょをしたことがあるとか、立小便をしたことがあるとか、物を盗んだことがあるなど様々なことを話した。
捜査員が「そうじゃないだろう。もっと悪いことしてるじゃない」と問いただすと、宮崎元死刑囚はこう答えたという。

「話を聞いてください」

そして宮崎は自分が行ったことを順番に話し始めた。

翌日の8月10日、宮崎の案内で遺体遺棄現場に向かった捜査員達。

そこにはDちゃんの手と足があるというが、案内された現場を捜索しても出てこなかった。
すると宮崎が「じゃあ絶対に見つかる場所に行きましょう」と別の場所を案内し始める。
「ここです」と道路から指をさした大きな木の下には小さな頭蓋骨が置かれていた。

その頭蓋骨はきれいに磨かれていた。

宮崎勤はDちゃんの殺人・死体遺棄の疑いで再逮捕された。

警視庁は宮崎の自宅を家宅捜索することになるが、この部屋に無造作に積まれていたビデオテープや雑誌、漫画の量も話題となった。

合わせて5793本のビデオテープが押収され、74人の捜査員と50台のビデオデッキを投入し2週間をかけてすべてをチェックしたところ、8月21日にAちゃんの遺体を撮影したビデオが、23日にはDちゃんを撮影したビデオが見つかった。

本人の自供も合わせ、すべての事件で宮崎は逮捕起訴されることとなる。

刑事責任能力の有無が問われた公判

8月24日、宮崎は検察の取り調べの中で精神鑑定を受ける。
その結果「精神分裂病(現統合失調症)の可能性はまったく否定はできないが、現在の段階では人格障害の範囲と思われる」と診断されたことから、検察は起訴に踏み切った。

現在では重大事件の際は当たり前のように行われる精神鑑定だが、この頃はまだ珍しいことだった。

1990年3月30日に行われた初公判。
宮崎は犯行を自供していた取り調べ段階とはうって変わり、「夢の中で起きたような気がする」「覚えていない」「少女の遺体を焼いて食べた」などと、責任を逃れるような態度や突飛な発言に終止するようになり、弁護側は精神鑑定を要求し、宮崎の刑事責任能力の有無が問われる裁判となった。

この鑑定でも宮崎は簡単なこともわからないと言ったり、矛盾を追求するとわからないと言ったり、「ネズミ人間が木の陰から出てきた」「足でキーコキーコ動かす車に乗りたい」「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」などと話しており、数年かけて3つの鑑定結果が出た。

「人格障害以外に特に精神病的な状態にあったとは思われなく、犯行時に物事の良し悪しを判断し、その判断にしたがって行動する能力は保たれていた」

「犯行時、手の奇形による人格の妄想発展を背景にして、祖父の死亡を契機に離人症およびヒステリー性解離症状(多重人格)などがあり心神耗弱の精神状態にあった」

「犯行時にはすでに精神分裂病にり患しており、免責される部分は少ないが心神耗弱状態にあった」

この3つの異なる鑑定結果を元に、裁判は7年に渡って続けられた。

1997年4月14日、ついに宮崎の判決が出る。

当日は850人近い人が、少ない傍聴席を目当てに行列を作り、宮崎が起こした事件に対する関心の高さがうかがえた。

死刑判決の場合、先に主文を言うと被告人が動揺するため最後に言うのが慣例だが、宮崎の判決では裁判官は「主文。被告人を死刑に処する」と先に述べた。

刑事責任能力があったと判断されたのだった。

2001年6月28日には高裁で一審の死刑判決を支持し、公訴を棄却する判決がでる。
この高裁での裁判では、宮崎はやはり不可解な証言を連発したり、ノートに怪獣の絵を描くなど裁判の進行には全く興味を示さない様子だった。

「主文、控訴を棄却する」

2度目の死刑の言い渡しにも、宮崎は全く表情を変えなかった。

2006年1月17日、最高裁でも上告を棄却され、弁護側は改めて判決訂正を求めたが、2006年2月1日に棄却され死刑判決が確定した。

日本中を震撼させた男は、2008年6月17日に死刑執行、45年の人生の幕を閉じた。

宮崎勤の肉声を入手

宮崎勤とは一体何者だったのだろうか?
部屋には大量のビデオ、雑誌、漫画。“今田勇子”の告白文。
「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」「少女の遺体を焼いて食べた」などの発言…
幾度となく精神鑑定が行われ、その一挙手一投足が注目された。
当時の報道・ワイドショーは戦後の犯罪史上類を見ない劇場型犯罪を大々的に報じたが、彼の本当の姿を知ることはできなかった。

昭和と平成をまたいだ事件「東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件」発生から30年目を迎えた今年…フジテレビ報道局が空前のスクープを独占入手。
今まで誰の目にも触れることのなかった、宮崎勤元死刑囚の「肉声」をテレビで初公開するという。

そこからは、これまで私たちが持っていたイメージを大きく覆す、宮崎の意外な人物像が見えてくるということで、関係各所への徹底取材を元に、当時の報道やワイドショーの映像も使用しながら「刑事の戦い」をドキュメンタリードラマ化している。


(執筆:editors room)