「国が良くなれば地方も良くなる。地方が良くなれば日本が良くなる。これが政治だ」。そう語り続けた政治家、綿貫民輔氏。昭和44年に42歳で衆議院議員に初当選し、国土庁長官や建設大臣を務めた。雪深い土地に生まれた少年時代の夢から、四全総、能越道、立山砂防まで、その歩みをたどる。

世代交代訴え「じいちゃんはもう、さよなら」 中央での活躍に期待も


昭和44年、綿貫氏は42歳で衆議院議員に初当選を果たした。県議会議員を経て、2度目の挑戦だった。
当時、中選挙区時代の富山2区は定数3。毎回、自民党の候補者同士、そして革新系がしのぎを削る構図だった。若い綿貫陣営が訴えたのが世代交代である。「政策的にはまったく立派な自民党でございますが、その政策を実行する自民党の体質を変えなければならない」そして、こう続けた。「おじいちゃんはもうさよなら。いよいよ我々の時代だと。世代交代です」


当選を重ねるにつれ、周囲の期待も高まった。5選を果たしたインタビューで、大臣を期待する声も大きいと水を向けられると、「力がつけば、自ずから任せても大丈夫だと、ポストというものはついてくるものです」。さらに「大臣は一遍やったらそれでもう終わりという政治家にはなりたくない。何遍でもやらせてもらうぐらいのつもりでやろうと思っております」と意気込みを見せた。
議院運営委員長を2回連続で務める 若手だった古賀誠氏が語る綿貫委員長との思い出

この頃、綿貫氏は国会運営で与野党の調整を行う議院運営委員長を2回連続で務めた。周囲には、のちに政界で活躍する若手の人材が集まっていた。

その一人、自民党幹事長を務めた古賀誠氏は当時をこう振り返る。

「綿貫さんが議運の委員長の頃に国対の勉強を始めたという縁があり、いいお手本を示してもらいました。お酒の飲み方も含めて。楽しかったです。」そして、こんな事もあったと笑う。「綿貫委員長のときは、国対の副委員長だった我々も引っ張ってご一緒させてもらったけど、長いんだよね、時間が。今は考えられないよ」

そして古賀氏は綿貫氏の人物評について「政界の中では珍しくね、あまり駆け引きがない、自分に正直な政治家だった」と語った。
「汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう」 竹下登氏が「おれより偉いよ」

昭和61年、第3次中曽根内閣が発足し、綿貫氏は国土庁長官として初入閣を果たした。

地元は喜びに沸き、住民は「今度こそ、今度こそと思っていました。喜んでおります。」「待ちに待っておったですとも。井波ばっかりじゃない。呉西の人はみんなそうですよ」と語った。初めての入閣で、富山テレビは金丸信副総理、そして竹下登幹事長(いずれも当時)に期待度を聞いた。

金丸氏は「綿貫君には議運の委員長を二度やってもらいましてね。我が党にとっても国会にとっても重要な人であった。当然大臣になることは火を見るより明らかだった」と語った。
竹下氏の言葉も印象的だ。「議運の委員長のときなんて、汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょうという人だから。その点、私は人間としても尊敬しております。俺なんかよりずっと偉い人だ」

四全総に込めた「国が良くなればふるさとが良くなる」の信念 豪雪地帯で生まれたからこその理想

国土庁長官として綿貫氏は、国土の均衡ある発展をめざし、四全総の取りまとめに臨んだ。
四全総、第四次全国総合開発計画は、21世紀に向け東京の一極集中を是正し、地方の活性化を目指す国家プロジェクトである。豪雪などの地域的な事情を乗り越え、豊かな地方をつくることは、政治家を志した理由と一致していた。
綿貫氏はこう語っている。「雪深い豪雪地帯に生まれましてね、非常にハンディキャップのある地帯に生まれましてね。なんとかこの克雪地帯を作りたいというのは、私の最初の子どもの頃の夢だったんです」
大学を出てアメリカへ渡り、道路の除雪をすべて見てきたという。「もう全部機械除雪をやっている。ああ、これはできるんだなと」。ただ、実現には「政治の力がなければできない」と考え、「ぜひこれをやらなきゃならん」と決意した。
多極分散と高規格幹線道路 自ら地図に描いた1万4000キロの道路整備計画
心血を注いだ四全総は、多極分散という新たな国家像を示した。東京の一極集中から、受け皿としての地方の力を高めていくというものだ。そのための処方箋が、地方と地方を結ぶ新たな高規格幹線道路である。富山県関係では、能越自動車道や東海北陸道もその一つだ。四全総は新たに1万4000キロに及ぶ道路計画を盛り込み、地方の自治体関係者は大きな期待を寄せた。


平成2年、8回目の当選を果たすと、綿貫氏は建設大臣に就任した。自ら手がけた四全総、とりわけ日本海側と太平洋側をつなぐ新しい国土軸をつくることに情熱を注いだ。
綿貫氏はこう語った。「基盤投資というか、ネットワークづくりというか、そういうものを進めることが、即、この四全総の趣旨でもあり、東京の一極集中を分散させていくということです。東京の悪口ばかり言ってもだめなんですね。やっぱり受け皿を作って、自らやるという気概を起こしていかなきゃならない」
建設相在任中の平成2年、能越自動車道の起工式が行われた。四全総に盛り込んだ計画が実際に動き出した。

この頃、綿貫氏の秘書を務めていたのが、氷見市長や参議院議員を務めた堂故茂さんである。「政治家がどんどん上に行く時期をご一緒させていただきました。仕事をすると同時に、人間関係を構築していった時代ではないか」と話す。
暴れ川を恵みの川に 富山県を守る砂防への思いを引き継ぐ


県東部の常願寺川上流にある立山カルデラには、幾重にも砂防ダムが続く。山で土砂を食い止め、下流の生活を守る砂防事業も、綿貫氏が力を注いだ仕事の一つだ。政界引退後も全国治水砂防協会の会長を務めた。
富山県の新田知事は、砂防事業が県の発展に果たした役割について、綿貫氏と語り合ったことがあるという。

新田知事は富山県で、立山砂防を世界遺産にできないかと取り組んでいる事を話すと、綿貫氏は「ぜひ進めてくれよ、任せたぞ」と話したという。知事は「なかなかハードルは高いんですけども、綿貫先生の思いを継いでやっていきたい」と語った。

ふるさと、富山の安全な暮らしを支えているものは何か。基本に立ち返って見つめる、一人の政治家の思いが引き継がれている。
そしてこのあと、綿貫氏は政治家としての階段をさらに駆け上がっていく事になる。
その3に続く
本稿は富山テレビ制作の「綿貫民輔の遺言」(2026年11月7日放送)を再構成したものです。

