鹿児島県本土までフェリーで約半日かかる十島村。基幹産業の一つは、県本土と同じく和牛の生産である。ただ、牛の移動など離島ならではの苦労がある。今回、小宝島にカメラが入り、離島の和牛生産を見つめた。
珊瑚礁が盛り上がってできた島
太平洋と東シナ海の境目に位置する、十島村の小宝島。人口は61人、面積は約1平方キロメートルで、車なら5分ほどで島を一周できる。
島の東側に来ると、この島の成り立ちがよくわかる。ゴツゴツとした白い岩のようなものは珊瑚礁だ。小宝島は珊瑚礁が盛り上がってできた島である。

地盤が珊瑚礁のため農業は難しい。また、海が荒れやすく、漁業で安定した収入を得ることも困難だ。そんな小宝島の基幹産業は、島の岩山の麓を中心に展開されている。和牛の生産である。
「何年もかけて訓練した」自慢の牧場
和牛農家の岩下正行さん(75)は、広さ2.5ヘクタールの牧場を営んでいる。餌やりの場所がわかっている牛は、自分の餌やり場にやって来て次々と顔を突っ込む。

岩下さんは「訓練したのよ、何年もかけて。自分の場所を決めた」と話す。
牧場は岩場だった場所を、海岸の砂で埋めて平らにしたものだ。ここから半分は人工的に平らにしたという。岩下さんは「小屋にいるよりも牧場を走らせた方が健康的と思っている」と語る。
岩下さんは20年前に航空自衛隊を退官し、両親の牧場を引き継いだ。当時3頭だった母牛は、現在は22頭に増えた。
小宝島の和牛農家は岩下さんを含めて5軒、十島村の他の島を合わせると46軒である。村全体の売上額は2億6000万円にのぼり、和牛生産は村の重要な基幹産業となっている。

海を隔てた出荷という課題
その一方で、離島だからこその課題もある。海を隔てた牛の出荷だ。
1970年に十島村の臥蛇島で撮影された映像が残っている。村では港の建設がなかなか進まず、当時は牛を沖合の船まで泳がせ、ウインチで釣り上げるという方法が取られていた。
小宝島では1990年に待望の港が完成した。しかし、船で移動する牛へのストレスは想像を超えている。
岩下さんは「12時間フェリーに乗せて運ぶでしょ。痩せる。最高で20キロぐらい痩せる」と明かす。

午前4時半、出荷準備に追われる
午前4時半、フェリーが島に到着する前から、岩下さんは牛の出荷準備に追われていた。牛が少しでも快適に過ごせるよう、余念がない。
「向こう(県本土)に行って下痢が始まったり、出荷当時とは全然違う感じになる」と岩下さんは話す。
接岸から約10分後、フェリーは慌ただしく島を離れた。車両デッキでは、十島村の各島から搬出された牛たちが窮屈そうに身を寄せ合っていた。
半日の船旅をへて、フェリーは鹿児島港に到着する。牛たちは村が用意したトラックに次々と乗せられていくが、中には歩調がおぼつかない牛の姿もあった。ここから、消耗した体力を戻す作業が始まる。
島の牛たちが向かったのは、日置市の鹿児島中央家畜市場だ。セリまで2週間ほどかけて、十島村から委託された4人のヘルパーが牛の世話をする。

ヘルパーの一人、肥後廣志さん(76)は、岩下さんの牛を前に「これが岩下正行さんの牛。ちょっと痩せていますね」と話した。
肥後さんは船会社勤務を経て、17年前からこの職についている。「『少しでも値段が高くで売れるように』と努力しながらやっている」という。
故郷は無人島になった
肥後さんは、先述した牛を泳がせて船に乗せていた臥蛇島の出身である。臥蛇島はその後、無人島になった。
肥後さんは「まさか我が故郷が無人島になるとは夢にも思わなかった。なんで我が故郷がなんで無人島にならないといけないんだ」と振り返る。

島から託された牛を一頭一頭丁寧に世話する肥後さん。その背景には、他の島が臥蛇島のようになってほしくないという思いがある。
「我が故郷はなくなったが、他の島々には人がいて牛を飼っているから、島のために貢献できればとこうしてやっている」
「自由に生きられる」あと10年続けたい
小宝島で牛飼いとして生きる岩下さんは、「あと10年はこの仕事を続けたい」と話す。
岩下さんは「小宝島は大事だよ。こういう島を誰もいなくなった無人島にはしたくないなと思う。僕の性格に合った島だ。自由に生きられる」と語った。

十島村の各島は、他の地域と同じく人口減少という課題にさらされている。それでも島の基幹産業を守りたい。日本一の和牛県・鹿児島にある小さな島で、きょうも物語は紡がれている。

