「今日って何の日だろう?」とふと思ったとき、誰かに話したくなる雑学を紹介。
9月15日は「関ケ原合戦の日」。1600年(慶長5年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍が、現在の岐阜県関ケ原町周辺で激突した。
のちに「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ケ原の戦いは、日本の歴史を大きく動かし、江戸幕府成立へとつながる転換点となった。
9月15日は「関ケ原合戦の日」
慶長5年9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍が関ケ原で対峙した。これが「関ケ原の戦い」。これを記念して関ケ原観光協会は2022年、9月15日を「関ケ原合戦の日」と定め、日本記念日協会に登録した。
舞台となったのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町周辺。のちに「天下分け目の戦い」と呼ばれ、日本史の大きな転換点として語り継がれている。
関ケ原の戦いの背景には、豊臣秀吉の死後の政権運営をめぐる対立があった。
国立公文書館『徳川家康 将軍家蔵書からみるその生涯』によると、秀吉の死後、幼い豊臣秀頼に代わって政権運営を担ったのが、五大老(徳川家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)だった。
しかし、前田利家の死去などによって政権内の均衡は崩れ、家康が主導権を握るようになる。これに反発した三成は、大谷吉継や五奉行の増田長盛、長束正家、前田玄以らと反家康派を形成し、毛利輝元を総大将として挙兵した。
徳川政権への流れを決めた戦い
家康率いる東軍と三成率いる西軍が激突した関ケ原。戦いは一進一退の攻防となったが、小早川秀秋の寝返りを契機に西軍は総崩れとなり、東軍が勝利した。
その後、1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開く。関ケ原の戦いは、豊臣政権から徳川政権への流れを決定づけた戦いだった。
現在、関ケ原古戦場は歴史を伝える地域資源として整備されており、岐阜関ケ原古戦場記念館では、合戦の背景や武将たちの動き、関連資料などを学ぶことができる。

