和歌山市で、持病のてんかんによる発作で車を暴走させ、当時22歳だった竹田汐里さんを死亡・ほかに2人にけがをさせた「危険運転致死傷」の罪に問われている西馬淳子被告の裁判。
被害者参加制度を利用して裁判に参加している竹田さんの父・正義さんが意見陳述し「汐里を失った悲しみは、時間が経った今もなお、決して癒えることはありません」と今の心情を語りました。
そして「被告人の運転が原因で娘の命を奪っておいて自由に過ごせる状況は到底納得できません」と訴えました。
西馬被告は意見陳述の間、涙を流しながら聞いていました。
■「汐里を失った悲しみは 決して癒えることはありません」
<竹田汐里さんの父・正義さんの意見陳述より(正義さんが述べた内容をほぼそのまま記載しています)>
裁判官の皆様、本日はお話しする機会をいただきありがとうございます。私は竹田正義と申します。
今から5年前の令和3年7月15日。被告人西馬淳子の危険運転により、22歳4ヶ月という若さで命を奪われた次女・汐里。汐里を失った悲しみは、時間が経った今もなお、決して癒えることはありません。
本日は、父親として、汐里のこと、そして私たちが背負ってきた5年間の苦しみについてお話しします。
■「家族は、終わりの見えない悲しみの淵に突き落とされました」
汐里はどんなに優しい娘であったか。どんなに周りを明るくする、素晴らしい人柄であったか。妻と私は、汐里がこれから歩むはずだった未来や夢を、どんな思いで見守り、楽しみにしていたことか。
最愛の妹を奪われた長女の深い悲しみ、そして私たち家族4人でともに過ごすはずであった幸せな時間。そのすべてを一瞬にして奪われ、私たち家族は、終わりの見えない悲しみの淵に突き落とされました。
大切な存在を突然奪われた現実を、どうしても受け入れることができません。今もなお、家の中には、汐里のいない耐え難い静寂だけが広がっています。
■「娘を抱き上げたときは 不幸にしないと心に誓った日」
これからお話しするのは、汐里の素晴らしい人柄について。そして、この事故によって汐里の未来とともに奪われた、私たち家族の苦しみと、今日まで抱えてきた耐え難い悲しみのすべてです。
そして被告人の無罪主張することに対する苦悩についてもお伝えします。被告人、西馬淳子に対し法律で与えられる最大の厳罰を与えていただきたく、家族を代表してお話をしたいと思います。
平成11年3月15日夜長女と同じ産院で次女誕生の際に立ち会いました。
元気な産声を聞いた瞬間は本当に感無量で頑張って生まれてきてくれた娘を抱き上げたときは 愛しさと神秘的な出会いに感謝し、改めて家族を守る責任感、絶対に不幸にしないと心に誓った日でもありました。
■「かわいい、かわいい」と愛されて育ちました
3月生まれということもあり、子供のころは小柄でしたが天真爛漫で楽しく遊ぶ姿を見た周囲の皆から 「かわいい、かわいい」と愛されて育ちました。
また9カ月半でお隣の家に生まれた子犬を見てわんわんといったのが最初の言葉でした
小さいころから物覚えもよく、寿限無の名前を教えるとすらすらと耳で聞いた通り暗記したり何事にも熱心に取り組むようになりました。
友達も多く、保育園時代から汐里の亡くなった今でも家族ぐるみで気にかけてくれている友達が何人もいます。
そして汐里の葬儀にはコロナ禍の中400人以上の方々が汐里とのお別れのために参列してくれました。
保育園時代の友人や先生方、小中学校の先生方、友達や部活の先輩後輩、親御さん、元勤務先の社長さんをはじめ、従業員の方々、バイト先の店長さんや先輩、後輩。汐里のことを知るすべての方々が汐里のために足を運んでくださいました。
■吹奏楽部で高校野球の応援のため日焼けしながら…
小学校に入学するとお稽古事をしたいと汐里から申し出があり珠算とお習字、ピアノを始めました。そして卒業後も自分が納得してやめるまで頑張り続けました。何事も熱心に一生懸命取り組む自慢の娘でした。
中学校は姉と同じ中学校を受験し、入学式の歓迎セレモニーで吹奏楽部の先輩方の奏でるメロディーに感動し吹奏楽部に入部しました。
高校の部活も吹奏楽部に入部し、子供の日のマーチングパレードや、高校野球の応援のため真っ黒に日焼けしながらバスクラリネットなどを演奏していた姿が今でも目に浮かんできます。
■姉のことが「大好きで常々甘えた」汐里さん
その後、短大に進み卒業後はメーカーに就職して、休日には母親とプロバスケットボール選手の推し活し、遠くは熊本県まで遠征に行くほど旅行を兼ねての応援に青春謳歌していました。
また汐里は特に長女のことが大好きで常々甘えており、二人だけでしか知らない特別な時間を過ごしてきたと思います。
そして令和2年3月末、ネフローゼ症候群という腎臓の病気と診断され日赤病院で入退院を繰り返し、ステロイド剤の副作用で仕事もやむなく退職することになりました。
月日が経ち、薬剤の量が徐々に減らせるようになり、次第に汐里もまた以前のような社会生活が送れるようになればという前向きな気持ちを持つようになりました。
リハビリの意味も込めて焼き肉店の週一ランチ、居酒屋、ドラッグストアをそれぞれ短時間掛け持ちバイトを始めていました。
事故当日の令和3年7月15日は焼肉店のランチ営業に向かう途中でした。
■「顔面傷だらけ、手に触れるとまだ温もりがあり…」
[事故当日のこと]
11時半頃、妻から私のスマホに着信が入りました。 日赤からの電話で 汐里が事故して運ばれてきたと。日赤からの電話だったので自損事故? 骨折程度で済めばいいのにな。と思いながら仕事場から病院へ向かいました。
救命センターの三畳程度の個室に私たちは案内され暫く待たされました。
そして医師が来て告げられた言葉が、「落ち着いて聞いてください。病院についたときは心肺停止状態でした 救命処置として胸を切開し直接心臓マッサージと気道確保のために喉に管を通したと」
午後0時0分、重症頭部外傷で亡くなりました。
救命治療室の汐里の元へ案内されました。
顔面傷だらけ、手に触れるとまだ温もりがあり開いたままの瞳からは「私、どうなったの?」と無念をいっぱい訴えているようでした。その顔も私の瞼に焼き付いています。消えません。
事故当日は、どんな事故か把握できておりませんでした。葬儀の手配や警察とのやり取りなどを 淡々とこなすのが精一杯でした。
また 斎場の火葬場では 私が右手の親指で点火スイッチを押しました。
娘が荼毘に付される様子を思い出すたびに生まれてきてくれた時の誓いを守れずにまだ、胸が苦しめられます。
■「真摯に自分がしたことを反省しているとは全く、思えません」
[被告人に対して思うこと]
私は裁判で被告人の発言を聞いておりました。
裁判における被告人の公判廷供述から真意を推し量ると「私は、確かに事故を起こしました。ですが、私には過失がないので無罪です。娘さんは運が悪かったんでしょ」と言われたような感覚を抱きました。
初めに不起訴になった自信からでしょうが、事故後の言い逃れや青任回避に終始し 真摯に自分がしたことを反省しているとは全く、思えません。
また自分の主張に無理があることは、本人が一番よくわかっていると思います。
数々の証拠を突き付けられても何も認めないし自己保身の言い訳を続ける被告人に私たちは、5年間も苦しめられ憤りを覚えています。
■「命を奪っておいて自由に過ごせる状況は到底納得できません」
[望む刑について]
被告人の運転が原因で娘の命を奪っておいて自由に過ごせる状況は到底納得できません。
刑務所に入って自由を奪われた状況の中で自分が間違った選択をしてしまった結果、こういう事になってしまったと。
また家族と会えなくなった事によりそこで初めて状況を、理解できるかと思います。
以上よりこのような否認事件に対し、前例として残るような重い実刑判決を望みます。
■被告は「てんかんの発作が起きたわけではない」無罪主張
この裁判の被告・西馬淳子被告は5年前、和歌山市で持病のてんかんによる発作で意識を失う恐れがありながら、車を運転して暴走し、竹田さんを死亡させたほか、2人に重軽傷を負わせた罪に問われています。
西馬被告は事故後、危険運転致死の疑いで警察に逮捕されたものの一貫して容疑を否認し、嫌疑不十分で一度は不起訴になり、遺族による検察審査会への申し立てを経て、再捜査の結果、起訴されていました。
これまでの裁判でも西馬被告は、「てんかんの発作が起きたわけではない」などと起訴内容を否認し、無罪を主張しています。
一方、検察側の証人として出廷したてんかんの専門医は、ドライブレコーダーに残った被告の事故時の様子などから「原因はてんかんによるものと強く疑う」と主張していました。
