自民党幹事長や建設大臣などを務め、国民新党の代表として小泉郵政改革に対抗した綿貫民輔さんが18日、99歳で亡くなった。
私が新人記者の頃から取材してきた綿貫氏は、保守の考え方を大事にしつつ、時に応じて硬軟を使い分ける懐の深さと明るい人柄で幅広い政治家から愛されていたのが印象的だった。

そして小泉郵政改革への猛反対や解散権への異議などを通じ、日本の政治にいぶし銀の硬骨漢ぶりを見せた。
自民党最大派閥の会長として奔走
私が最初に政治部の記者となった1999年夏、綿貫氏は、自民党の最大派閥「小渕派」=平成研究会の会長を務めていた。
派閥のオーナーは当時総理大臣だった小渕恵三元総理、後ろ盾は竹下登元総理という状況で、綿貫氏は小渕氏が総理としての仕事に専念する間に派閥を預かる立場として会長となった。
もともと綿貫氏は自民党内で椎名派に所属するなど、必ずしも竹下派=小渕派の中核メンバーと言えない面もあった。
1991年に宮沢内閣で党の要である幹事長に就任したのも、当時の竹下派内の、小沢一郎氏らと小渕恵三氏らの対立に伴い、派内で比較的中立的な立場だった綿貫氏が起用されたもので、周囲から「雇われマダム」と称されることもあった。
それでも小渕派会長としての綿貫氏は、国会近くにあり小渕派事務所や竹下事務所も入居していた永田町TBRビルを本拠地に独特の存在感を発揮していた。
事務所の自室には立派な神棚があった。
綿貫氏は富山県の神社の神職出身で、神道政治連盟の国会議員の重鎮でもあり、保守の立場は一貫していた。
一方で、朗らかな人柄で柔軟性を見せる一面もあった。大の酒豪で、当時すでに70代だったが、昼ご飯は蕎麦などに抑え、政治家らと飲む夜のお酒を何よりの楽しみとしていた。
そして健康のため階段を愛用し、自民党本部8階で小渕派総会が開かれる際には、追随する記者が息切れを起こしそうになる中、8階までの階段をスタスタと上った。
小沢氏の連立離脱騒動の渦中に
その綿貫氏にとって、当時一番の問題が小沢一郎氏率いる自由党の連立離脱問題だった。
少数与党でスタートした小渕政権は、状況打開のため、小渕派の野中官房長官らが主導する形でまず小沢氏の自由党と自自連立を組み、それをステップに本命の公明党と連立する自自公政権へと移行する段階だった。
しかし小沢氏は、今の日本維新の会を彷彿とさせるように、連立離脱をちらつかせながら議員定数の削減実現を求め、自自両党の合流も迫った。野中氏らが小沢氏の要求に難色を示す中、小沢氏が頼ったのが綿貫氏だった。
綿貫氏と小沢氏は「民さん」「一ちゃん」と呼び合う中で、綿貫氏は自らを頼ってくる小沢氏に一定の信頼を抱き、小渕総理との橋渡し役も務めた。小渕総理行きつけのゴルフ場の施設での小渕・小沢会談に綿貫氏が同席したこともあった。
ある週末、私は綿貫氏が小沢氏と極秘会談するかもとの情報に触れ、世田谷の綿貫氏宅に張り込んだ。夕刻、綿貫氏は夫人の運転する車で家を出てきて、私ともう1人の記者が後を追った。
綿貫氏は近くの地下鉄の駅で降りて電車に乗り込むと、追随した私たちに会談の予定を笑って否定。安心していいからと去って行った。
果たしてその夜、綿貫氏は青木幹雄参院幹事長を交え、ホテル内の料理店で小沢氏とみっちりと会談。自宅で帰りを待っていた私たちの元に現れた綿貫氏はガハハと笑って会談の事実を認めた。
相手への配慮から当初は会談を否定したのであろう綿貫氏を責めるわけにもいかず、当惑する私たちに、綿貫氏は当たり障りのない範囲でだが、小沢氏との会談内容を語った。
そして国会の会期末、小渕政権が定数削減法案について小沢自由党の主張の全面受け入れを見送る方向になると、綿貫氏は小沢氏と自民党の連立合意をもとに「至誠にもとる」と憤り、官邸と自民党執行部の方針に異議を唱えた。
ただ、その後は総裁派閥の会長として小渕総理の立場を尊重し、小沢氏とも徐々に距離を置くなど、柔軟な対応で小渕政権を支えた。
衆院議長に就任 もし派閥会長のままだったら
2000年4月、自由党が連立離脱に踏み切る中で小渕総理が病に倒れると、後継として森喜朗内閣が発足。2001年の衆院選後には、再登板を期待する声もあった橋本龍太郎元総理に派閥会長を譲り、綿貫氏自身は衆院議長に就任した。
当時の小渕派改め橋本派は、野中広務氏、村岡兼造氏、青木幹雄氏というそれぞれ官房長官を経験した幹部の微妙なバランスで運営されていて、小泉純一郎内閣のもとで橋本派が非主流派に転落すると、幹部間の関係が悪化し派閥は弱体化した。
仮に綿貫氏が議長に就任せず、旧小渕派会長のまま、その人柄でゆるやかな派閥運営をしていたら異なる軌跡を辿った未来もあったかもしれない。
総理大臣の解散権に議長として異議
三権の長に上り詰めた綿貫氏だが、議長就任後も偉ぶらず町の居酒屋で記者と語り、議長公邸への帰りは車ではなく地下鉄で帰ると言って聞かないこともあった。
そして綿貫氏が議長として特筆すべき硬骨漢ぶりを発揮したのが、総理大臣が衆院の解散権を持っているという慣例に、真っ向から異議を唱えたことだった。
確かに、衆議院の解散は、内閣不信任案の可決時の対応を除けば、憲法7条に天皇の国事行為として定められているだけで、天皇の国事行為は内閣の助言と承認に基づくことを根拠として、総理大臣の専権事項と解釈されているだけで、総理大臣が自分の好きなときに衆院を解散できるとは憲法のどこにも書いていない。
そこを綿貫氏は突いた。
当初、綿貫氏は記者会見を開いて大々的に主張しようかと漏らしていたが、最終的には記者団との懇談の中でという控えめな形での発信にとどめた。
それでもこの席で綿貫氏は、「憲法7条に基づく解散は、政府が勝手に思いついたら解散やるぞということで、本当はおかしい。行政府が立法府に命令するのは考えられない」と一刀両断した。
発言は小泉総理による解散を牽制する狙いだと報じられたが、綿貫氏の発言の核心は、あくまで総理の解散権のあり方そのものへの疑義だった。
小泉総理はただちに、7条解散は慣例で認められてきたことと反論したが、自民党内でも7条解散の妥当性が議論を呼んだ。国権の最高機関である国会の長たる権力者でありながら、行政府の長である総理の権力に抵抗したのは異例のことだった。
郵政民営化反対から新党結成の舞台裏
その衆院解散をめぐって、綿貫氏が一躍、全国に名をとどろかせたのが2005年。小泉内閣の郵政民営化法案への反対と国民新党の結成・党首就任だった。
もともと綿貫氏は、建設大臣などを経験した建設族で、郵政との関わりは濃くはなかった。しかし議長退任後、自民党の郵政懇話会という郵政反対派の牙城の会長に就任することとなった。
小泉改革にアメリカ的な弱肉強食の匂いをかぎとり、日本の伝統を守る保守の思いから反対に火がついた部分もあったが、議長経験者という重みと人脈を頼りに、郵政関係議員らから民営化反対の象徴にまつりあげられた面もあった。
実は綿貫氏は、小泉総理のことは昔からかわいがっていた。慶応大学の後輩であり、国対や大蔵委員会で仕事を共にしていて「純ちゃんとは本当に仲がいいんだ」と何度も語っていた。
両者とも文化人的な側面もあり、酒の席での話も盛り上がったという。
その小泉総理と全面対決する形になったのは皮肉だったが、周辺によると綿貫氏は、小泉総理の批判はしても悪口は言わず、もっぱら矛先は郵政民営化の旗振り役だった竹中平蔵氏や武部幹事長に向いていたという。
そして、綿貫氏は郵政民営化法案の採決で党の方針に造反し、小泉総理は参院での法案否決を受けて衆院を解散。自民党を除名される綿貫氏は、郵政民営化に反対した同志の受け皿として国民新党を結成し党首についた。
元来、派手なパフォーマンスが嫌いな綿貫氏だったが、水戸黄門よろしく「国民」と印字された印籠を持って新党をアピールした姿は、一人でも多くの仲間を助けるための異例のパフォーマンスだった。
この選挙では自民党に刺客をたてられたが、綿貫王国と言われた強固な地盤で当選。
しかし、2009年の選挙では、選挙区で立候補すれば当選は濃厚と言われたにもかかわらず、議席獲得の見込めない比例での出馬を選択し、地元の支援者や自民党県連の分裂状態を避ける方向に舵を切り、半ば自ら議員バッジを返上する形となった。
権力者ながら権力に立ち向かう負けん気
綿貫氏の政治キャリアを振り返り、その人柄をよく知る人物は、「綿貫さんは権力者でありながら権力に抵抗した存在だった。政府が勝手に議会を解散するのは権力の乱用だと考えていたし、小泉内閣に対しても議会の論理を通した」と語った。
郵政民営化を巡る戦いでは、党内手続きを軽視するかのような小泉政権の姿勢に対抗しつつ、負けん気を発揮して戦いを楽しんでいる部分もあったという。
中でも、総理による解散権への異議については、その後も総理の解散権に制限をかけるべきだとの議論のきっかけとなり、憲法改正の対象にもとりざたされた。
実際、イギリスでは一時、解散権が法律で制限されたこともあった。
ただ総理の解散の権限は、総理が政治的に局面を打開する手段として必要だという面もあり、イギリスも解散権の制限をとりやめて今に至っている。
綿貫氏の主張はそれとして、プラスマイナスの両面を考慮して、今後も議論していくべきテーマだろう。
このように負けん気の強かった綿貫氏は、カラオケでは、北島三郎さんの演歌「炎の男」を愛唱した。「男の俺が選んだ道だ」「たとえ茨の道だとて」「負けてたまるか」こんな歌詞が並ぶ歌で、それは綿貫氏の政治人生とも重なって見える。
引退後の綿貫氏は、与野党を問わず政治家の現状に「だらしないなあ」とぼやき、物足りなさを吐露していた、保守の信念を貫きつつ人脈に裏打ちされた柔軟さも持ち合わせた姿勢。そして曲がったことや乱暴な政治は許さないという負けん気。
こうした要素が、令和の政治家にどう引き継がれているのか否か、綿貫さんも天で眼鏡の奥から見つめているだろう。
(文中の政治家のポスト・肩書は主に当時のものです)
【執筆:フジテレビ報道局 経済部長 高田圭太】

