8月15日は「終戦の日」です。太平洋戦争が終わって81年、戦争を直接知る人が少なくなり、戦争の記憶を伝えることは年々難しくなっています。
今野幾代さん。昭和10年、1935年生まれの91歳です。
1941年、太平洋戦争は今野さんが小学1年生のときに始まりました。
母親は、今野さんが生まれて間もなく亡くなり、父親は仙台空襲の数カ月前に病気で亡くなったそうです。その父に、軍隊への招集を命じる召集令状、いわゆる「赤紙」が届いたのは亡くなったその日のことだったと振り返ります。
今野幾代さん
「父親だって、いきなり亡くなるわけではないから。病気で寝ていた。病人で。だから、亡くなった日にこの赤紙が来た時には子供心にもびっくりしました。『やっぱり戦争は負けるな』と思った」
子供心に戦況を感じ取ったという今野さん。その数カ月後、1945年7月10日、仙台空襲に遭います。小学5年生でした。
今野幾代さん
「爆弾とか飛行機の音とかもう恐怖だけですよね。いろいろな事を感じている余裕はない。戦争が早く終わってくれないかなという気持ちはありましたが、私たち一人ではどうにもしようがない」
仙台空襲の翌月、8月15日に迎えた終戦。周りの大人は泣いていたそうですが、当時の今野さんの胸にあったのは安堵と喜びでした。
今野幾代さん
「負けたということは空襲もないし、明るいところでごはんも食べられるし勉強もできる。ただほっとしてうれしかった。不謹慎かもしれないけれど子供はみんなそうだったと思うよ」
今野さんが、戦争の記憶を語るようになったのは、75歳のときでした。新聞で「語り部不足」の現状を知り、「仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会」に入会したことがきっかけです。今野さんは、90歳を超えた今も戦争の記憶を伝え続けています。
今野幾代さん
「照明弾ってすごく明るい。それがバーっと照らされた時、私たちもう駄目だと思った。でもその時に雨みたいのが降ってきた。臭いを嗅いだらガソリンの臭いがしました。それは焼夷弾の中に含まれている火がつきやすいようにね。炸裂すると火がバーっと広がるような弾だったらしいんです」
今野さんの言葉は聞く人たちに実感を持って伝わったようです。
聞いた人は
「切実な言葉を聞くと書物や映像よりも真に迫って聞こえるし、祖父母も体験はしているがあまりに辛い話だったのか教えてくれないまま亡くなってしまった。実体験を話してもらうのはすごく貴重な体験」
今野さんが所属していた「語り継ぐ会」は、多い時には100人以上の会員がいましたが、高齢化が進み3年前に解散しました。
今野幾代さん
「会長や事務長さん皆亡くなってしまったから、そういう時代なのかなと思いました。残念と仕方無いなと。(戦争の記憶を)つないでいかないといけないことはわかるけれど時の流れというか」
それでも、会ではそれぞれの体験を文字として残し後世に伝えようとしています。
伊達忠敏さん(故人・1929年生まれ)
「町の周辺部には火柱が立ち『このままでは火にまかれる』という父の決断で、家を捨てて逃げることにした。父・母・兄夫婦・姉・私の6人が離れ離れにならないように手をつなぎ、焼夷弾が落ちてくるたびに地に伏せ、這うようにして、勾当台通りを北仙台方面へ逃げた。」
好川育雄さん(故人・1932年生まれ)
「街の中は、死体が累々と横たわっておりました。身元のわからない方たちの遺骸はトラックの荷台にスコップで積み上げられ北山霊園に運ばれました。乳飲み子の上に被さって共に黒焦げになった母親の死体。そこに私は地獄を見る思いでした」
語り部活動を続ける今野さんは去年、トレーニング中にバランスを崩し背骨を圧迫骨折。入院生活となり、語ることのできない時期もありました。
今野幾代さん
「語れなくなったら仕方が無いですよね。人間には寿命がありますから」
戦争を直接知る人が少なくなる中、今年で戦後81年。戦争を知らない人たちへ、今野さんが伝えたいことは一つです。
今野幾代さん
「相手を思いやる愛ですね。それだけです。愛があれば戦争もしない。衣食住があると意外と人間は安心して自堕落になってしまうけれど、それが本当の幸せということを考えて生きていってほしい。」
今野さんは40才くらいまで仙台空襲の夢を見ていたそうで、戦争の体験は体にしみついているとも話していました。それほどの経験をした方々が本当にどんどん減っているという現実があります。
政府の人口推計から計算すると、7月の時点で全人口のうち80歳以上の人はおよそ1割、(10.4%)戦争の記憶が残っていると考えられる85歳以上の人はわずか5.8%となっています。
今野さんが言っていたように「仕方のないこと」ではありますが、だからこそ1人でも多くの人の戦争経験を聞いて語り継いでいくことが必要です。
※好川育雄さんの育は土編に育
