福井市出身のバレーボール元日本代表、清水邦広選手が18年間の現役生活にピリオドを打った。北京・東京と2度のオリンピックに出場し、長年にわたり日本男子バレー界をけん引してきた清水氏が39歳で引退を決断した背景には、大けがや「悔しさをバネに頑張る気持ちが消えた」という自身の変化があった。最後のシーズンはチームの優勝で自身の花道を飾り、次のステージはコーチとして日本バレー界のメダル獲得を目指す。
福井テレビの報道番組「タイムリーふくい」で現在の心境と今後を語った。
「俺もそろそろ終わりかな」引退を決意
清水氏が引退を決意したのは、2026年1月。

8年前に膝の大けがをし、以来毎年のように手術と復帰を繰り返してきた。年齢とともにパフォーマンスが低下する実感もあり、40歳という節目を迎えることも頭にあった。
しかし、それ以上に決定的だったのは内面の変化だった。昔なら西田選手などの若い選手を見て『うわぁあいつすげえな。でも負けずに頑張ろう』という気持ちがあった。
しかし最近は『すごいな、でもこうやったらもっとうまくなるのに』というコーチ目線の思考が自然と浮かぶようになっていた。
『悔しさをバネに頑張る気持ちが消えてるな』と気づいたとき、引退という決断が固まった。
現役を終えた現在は『もうバレーボール終わったんだな』という寂しさを感じながらも、コーチとしてグラウンドに立つ中で『うずうずしながら、もっとやりたいな』という気持ちも抱えている。
原点は福井、母のスパイクに憧れてコートへ
清水選手がバレーボールを始めたのは、小学4年生、10歳のとき。きっかけは母親のママさんバレーだった。練習に連れて行かれた幼い清水少年は、最初は周りの子供たちと遊んでいたが、徐々に『お母さん何してるんだろう』と興味を持つようになった。
当時の母親はエーススパイカーとして活躍しており『お母さんのようなエーススパイカーになりたい』という思いがバレーボールへの入り口となった。
中学生になるとVリーグの試合を県営体育館に観に行き、さらに大きな衝撃を受ける。サントリーサンバーズのオポジットエース、ジルソン選手の豪快なスパイクを目の当たりに。『こんな選手になりたい』と心に決めた。左利きのパワー型というプレースタイルは、この経験が原点となっている。
高校では福井工大附属福井高校でインターハイ8強に貢献。「自分たちで考えてバレーボールを」という方針のもと、練習メニューを自分たちで組み、試合の結果が出なければミーティングを重ねた。
清水選手は当時から「天才型ではなかった」と自己評価する。練習前に5キロ走り、納得いかなければ練習後にも走り込んだ。その走路は後に後輩たちから「ゴリロード」と呼ばれ、いまも語り継がれている。
「借りを返す」2度のオリンピックとけがとの戦い
大学卒業後にはパナソニックパンサーズ(現・SVリーグ大阪ブルテオン)に入団し、絶対的エースとして活躍する一方、日本代表として北京(2008年)と東京(2021年)の2度のオリンピックに出場した。

最年少出場の北京では予選全敗という苦い結果に終わった。その後、ロンドン、リオと出場権を逃し続けたことが、執念をより強いものにした。「借りを返すんだっていう思いで代表を続けてきた」と語る。
しかし東京オリンピックの1年前、膝に大けがを負う。4回の手術を経てコンディションが上がらない期間も続いた。それでも『オリンピックに出たい』という気持ちと強い精神力で復帰を果たし、1年延期となった東京大会に最年長選手として出場。チームは7位入賞を果たした。
元日本代表監督で同じく福井県出身の中垣内祐一氏は清水氏について、「東京オリンピックに出るということに対しては最大限の努力をした。涙ぐましい努力があったからこそチームメートからの信頼も厚かった」と評価する。
コーチとして目指すのは「オリンピックのメダル」
今シーズンはチームがSVリーグのプレーオフ決勝でサントリーを2勝1敗で下し優勝。清水選手はチームメートたちから胴上げされ、最高の花道を飾った。
今まで何度もVリーグ優勝してきたが、胴上げはずっと断ってきた。それでも最後だけは、後輩の申し出を受け入れた。
引退セレモニーでは「10歳からバレーボールを始めて、30年間バレーボールを続けてこれて、本当に夢のような景色で、本当に幸せな時間でした」と振り返った。
引退後は、所属チームである大阪ブルテオンのコーチに就任。長年けがに苦しんだ自身の経験を生かし、負傷を抱えた選手へのメンタルケアやコミュニケーションを重視したいと考えている。

将来については「中垣内さんを超えることはできないと思うが、上を目指したい」と語り、最終的には「コーチという立場でオリンピックのメダルを取ること」と明言した。

