平安時代の戦乱「前九年合戦」の主な舞台でもある岩手県南部。奥州市衣川と平泉町は、歴史的に深い結びつきを持つ地域だ。現在も残る地名の中には、その歴史を伝える痕跡が色濃く刻まれている。この二つの地域に伝わる地名の由来に迫る。

平泉町の北に隣接する奥州市衣川。この衣川が「衣関」の由来に関係しているとされている。

長年、岩手県の地名を調べている宍戸敦さんは、「なぜ平泉にあって『衣』なのかと疑問を持つ人もいると思う。中央に衣川が流れてはいるものの衣川と平泉は歴史的には“一心同体”のような場所」とし、その背景に前九年合戦の存在を挙げる。

前九年合戦は、平安時代の後期に東北地方で起きた朝廷と豪族との戦いで、12年間続いた。この戦いにおいて、重要な拠点となったのが「衣河関」である。

平泉世界遺産ガイダンスセンターの八重樫忠郎センター長は、「衣河関は国家によって設けられた関所で、朝廷(国家)と東北地方の勢力を分ける境界として機能していた」と説明する。
さらに、衣河関から北へと延びる「衣関道」は当時の大動脈であり、外から運ばれてきた物資がこの道を通って朝廷側へと入っていったという。

やがて戦乱が収束し、1100年頃に中尊寺が建立された。「衣関」が中尊寺の住所になっている。
八重樫センター長は、「この地は前九年合戦の激戦地であり、その記憶を忘れないために、自分の祖先を祭るという意味で地名として残されたのではないか」と指摘する。

長い戦乱の後、奥州藤原氏によって平泉の繁栄と平穏が願われた。その痕跡が「祇園」という地名に残っている。

宍戸さんは、「平泉の祇園は、現在の八坂神社の地に祇園社が祀られたことが由来と考えられる」とし、「東西南北に神様を祭って一帯を守っていただく。外敵・穢れや疫病侵入しないように、南側に祇園社を配置した」と説明する。

平泉を守るため設置された祇園社には特別な役割があったとされる。八重樫センター長によると、「祇園社は都市に入った穢れを外に流す役割を担っていた」という。

八重樫忠郎センター長
「当時は様々な疫病や災いは祈りでしか排除できないと考えていた。都市で疫病などがはやれば都市の外に(水の力で)流す。平泉の場合は太田川のそばに祇園社ができ、陰陽師と呼ばれる方々が穢れを土器などと共に川で流した。(土器に)描かれている顔はみんな苦悶している。自分の嫌な部分を土器に描いて川に流すことで自分の嫌な部分を取り去ってしまう」

かつての戦いの記憶、そして疫病や災いから町を守ろうとした人々の祈り。その痕跡が今も地名に残っている。

岩手めんこいテレビ
岩手めんこいテレビ

岩手の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。