昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
通算1065盗塁、シーズン106盗塁の“世界記録(当時)”を打ち立てた福本豊氏。類まれな盗塁技術でダイヤモンドを駆け回り阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)の黄金期を支えたレジェンド。13年連続盗塁王。歴代5位の2543安打。通算盗塁だけでなく115三塁打、43先頭打者本塁打など数々の日本記録も保持する“世界の盗塁王”に徳光和夫が切り込んだ。

徳光:
今のプロ野球を見ていると、盗塁がほんとに少ないと思うんです。2024年の盗塁王はパ・リーグがソフトバンクの周東選手で41、セ・リーグなんか阪神・近本選手の19ですよ。

福本:
ちょっと少ないですね。トライの回数が少ないというか、あんまり勝負に行ってないですね。

徳光:
投手がそれだけ牽制がうまくなったんですかね。

福本:
それもあるけど、やっぱり思い切ってスタートが切れない、躊躇してしまうというかね。

柴田勲氏が1つ走ったら俺は2つ走る

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福本氏は1972年に当時の世界記録となるシーズン106盗塁を達成、70年から82年にかけて13年連続で盗塁王を獲得した。この間、最も少なかった年でも54盗塁を記録している。

徳光:
現在のプロ野球では考えられない数字ですよね。

福本:
そうですね。106盗塁の後の年も95と94やったんですけど、ほんとは、もっと行けたんです。休まされたんですよ。

徳光:
えっ、「行くな」と言われたんですか。

福本:
「ケガするから」、「日本シリーズがあるから」とか言われて。

徳光:
歴代通算盗塁の1位は福本さんの1065盗塁でしょ。2位が南海(現・ソフトバンク)の広瀬(叔功)さんで596。

福本:
僕の神様ですね。広瀬さんを目標にしてましたから。

徳光:
そうだったんですか。とっくに超えちゃったじゃないですか。

福本:
分からないうちに超えてました。広瀬さんがいくつ盗塁してるかは知らんかったし…。目標は広瀬さん。

徳光:
3位の柴田(勲)さん(579盗塁)なんかは問題じゃない。

福本:
怒られますよ(笑)。皆、先輩やないですか。

徳光:
柴田さんの倍も走ってるわけで。

福本:
僕はパ・リーグでしたから、(セ・リーグの)柴田さんが1つ走ったら、俺は2個走ってやろうと思ってましたもん。

徳光:
大谷(翔平)選手も結構盗塁しますけど。

福本:
すごく速いですよ。いろいろ言われるけど、いいスタートが切れてますよ。

徳光:
そうですか。福本さんの全盛時だったら、メジャーでも100盗塁くらいできましたかね。

福本:
いや、体力が持ちますかね。時差があるやないですか。日本の場合は北海道から九州に行って試合をやったって、その日にできますけど、向こうではね。

徳光:
そっか、メジャーリーグってそういう見方をしなきゃいかんわけですね。あの大陸でやってるわけですから。

足は速くなかった少年時代

徳光:
福本さんはコテコテの関西弁でいらっしゃいますが、大阪市内の生まれですか。

福本:
今でいう東大阪市というところで生まれました。

徳光:
ということは憧れのチームはやっぱり阪神でしたか。

福本:
いや、僕はね、怒られますけど巨人ファンでした。テレビを見たら巨人ばっかりでしょ。

徳光:
その小学生の頃からもう野球は始められてたんですか。

福本:
遊びって言うたら野球しかなかったんでね。左で小さいし守るとこもないし、そんなにうまくもない。野球はみんなで楽しんでるくらいの感じ。

徳光:
町内の野球でね。
でも、そのときからもう足は速かったんですよね。

福本:
いやいや、そうでもないです。自分より足が速い大きい人がたくさんいたし。

徳光:
えっ、そうなんですか。

福本:
自分は3番目の中に入れるかなくらい。

徳光:
それは学年で。

福本:
いやいや、クラスで3番目くらい。チームでもそうでしたね。飛び抜けてっていうのはなかったですね。自分より速い人がいましたから。

徳光:
そうですか。それはちょっと意外ですね。
中学時代は準硬式だったと伺いましたが。

福本:
はい。トップボール(準硬式球)でした。そこでも試合には出てませんから。球拾いをやってました。

徳光:
ほんとにそうなんですか。

福本:
最後の3年生になって、ようやく試合に出してもらえるようになった。守るとこがないんでファーストを守ってました。

徳光:
外野手じゃなかったんですか。

福本:
他の人がみなうまいから。

徳光:
福本さん、それは謙遜ですよね。

福本:
いや、ほんまにそうですよ。

徳光:
だって高校は大鉄(現・阪南大高)に行くわけでしょ。

当時、大鉄高校はPL学園、浪商(現・大体大浪商)、北陽(現・関大北陽)などと並んで「大阪私学7強」と呼ばれていた。

福本:
大鉄高校で「野球部には入るな」って言われましたね。「下手やから入ったらあかん。また球拾いやで」って。

徳光:
でも、大鉄高校をお選びになったってことは、やっぱり…。

福本:
いや、それは別に野球しようと思って行ったんじゃないんですよ。学校に入れたらいいなっていう感じで。

徳光:
じゃ、「ま、さしあたって野球部に入るか」という感じだったんですか。

福本:
そうです。僕、ほんまにうまくなかったんです。みんな「うまかったでしょ」って言いますけど、「ちゃう、ちゃう、ちゃう」って。外野を守ったら結構バンザイをしてましたし。

徳光:
とてもそう思えないですね、福本さんのプロ野球人生しか知らない我々からしてみれば。

福本:
僕はいつも言うんです。「下手はうまくなるんです」。

初めて野球で褒められた!

徳光:
当時の大鉄高校野球部って相当人数がいたでしょ。

福本:
ええ、結構いましたね。1年生で入ったときは百何十人入ったんです。でも、みんなすぐ辞めていきますよね。

徳光:
厳しいんだ。

福本:
はい。人数が多いですから、まともな練習はできひんですよね。最初は球拾いがほとんどです。
でも、朝の練習のときに1人5本、ハーフバッティング(緩い球を半分くらいの力で打ち返す練習)をさせてくれるんですよ。1年生の選手が打つのを、監督がひと通り見てくれるんですけど、そのときに監督が後ろから「おい、福本。お前、ミートうまいな」って。初めて「うまいな」って言われました。

徳光:
野球で初めて。

福本:
はい。小さいときから野球やってきて、「お前、うまいな」って初めて言われました。ビックリして。あれから喜んじゃってバットを振りましたね。

徳光:
その一言で。そりゃそうですよね。だって、監督にひと言も声を掛けられずに野球部が終わっちゃう人もいるわけでしょ。

福本:
いや、ほんまにそうですね。
その辺から、道具持ちで遠征に連れて行ってもらったりしました。

徳光:
大鉄で、レギュラーにはなったんですか。

福本:
はい。1年生の夏の大会でベンチに入れてもらいました。

徳光:
やっぱり野球がうまいじゃないですか。

福本:
いやいや、それはないです。
夏の大会で3年生が終わって新チームになってから、センターで1番。

徳光:
高校時代は盗塁はどうだったんですか。

福本:
まあ走ってましたね。夏の大会で12個かそこら連続で走ってましたね。

徳光:
足が速くなったなっていう実感はあったんですか。

福本:
足が速くなったというか、タイミングが良くなったかなっていう感じ。

徳光:
タイミングが良くなったのって、足が速いのとどう違うんですかね。

福本:
スムーズにいいスタートが切れるといいますかね。「アウトでもええわ、行ってまえ」っていう感じでやっていくうちに、なんか、リズムが合ってきた感じで。

徳光:
高校生ですから、ほとんど単独スチールじゃなくてサインでしょ。

福本:
ええ。監督がエンドランとかそういうの、ものすごく好きでしてね。バントが嫌いなんで、送りバントする前に走るかエンドランですね。

徳光:
そういう野球だったわけですね。それはある意味で足がより鍛えられますね。

夏の甲子園“お見合い”でサヨナラ

福本氏が3年生だった1965年、大鉄高校は夏の甲子園に初出場を果たす。しかし、初戦の秋田高校戦で延長13回の熱戦の末、4対3で敗れ、甲子園で校歌を歌うことはできなかった。

福本:
2アウトランナー2塁で、僕の前に落ちるポテンヒットでサヨナラ負けしたんです。

徳光:
追わなかったんですか。

福本:
いや、行ったんですけど、セカンドとお見合いしたんですね。それで負けました。はい。

徳光:
はあ…。ちょっと印象に残るサヨナラ負けですね。

福本:
一番やったらあかんことをやりましたね。

徳光:
そうですよね。

福本:
だから、社会人で松下電器(現・パナソニック)にお世話になっても、前のボールはものすごく気をつけるようになりました。プロに入ってもそうですね。

徳光:
積極的に攻める。攻めの守りですね。

福本:
お見合いはしないで、どんどんバーッて突っ込んで行くようにしました。

補強選手で都市対抗に スカウトの前でHR

徳光:
社会人では名門の松下電器に入られたわけですけど、大学に行くお話はなかったんですか。

福本:
いや、あったんですよ。あったんですけどスパルタが厳しいんで。

徳光:
じゃ、大学に行ってたら、もしかすると今の福本さんは…。

福本:
ええ、多分、脱走してたかも分からんですね(笑)。

徳光:
そうですか。脱走の足は速いですもんね(笑)。松下電器には何年間いらっしゃったんですか。

福本:
3年です。

徳光:
1つ下に、後にチームメイトになった加藤秀司さんがPLから入ってこられた。

福本:
そうです。加藤はPLのときからずっとスカウトが見にきてましたからね。それで最後の年、彼が2年目、僕が3年目ですけども、スカウトが加藤を見に来たついでに、僕も一緒に入ったんです。

徳光:
阪急に。

福本:
足が速いのおるやないかっていう感じで。加藤はドラフト2位で、僕は加藤のついでに阪急に拾ってもらった。

徳光:
僕が福本さんを最初に見たのは、富士製鉄広畑(現・日本製鉄瀬戸内)の補強選手で都市対抗に出たときなんです。あのときは見事な活躍をしましたよね。

1968年の都市対抗に、福本氏は加藤氏らとともに富士製鉄広畑の補強選手として出場。打ってはホームラン、守ってはホームへの好返球で、チームを優勝に導いた。

福本:
あの補強をスカウトが見てた。そこで、間違うて初めてホームランを打ったんです。そういうのを見て、それで取ってもらったんじゃないのかな。

徳光:
足も速かったですよね。すごく速いなと思いました。

福本:
そんなに自分では速いと思ってなかったんですけどね。間違うてのホームランと、間違うてのバックホームのストライクが決め手やったんちゃいますか。たった1回、その1回こっきりで。

徳光:
そんなに謙遜しないでください。でも、あれがプロ野球に入る一番のきっかけになったっていいましょうか、言ってみれば自分をアピールする最高の場にもなったわけでしょうね。

福本:
いや、僕はプロ野球には全く興味がなかったんですよ。

徳光:
ええっ。

福本:
「社会人のオールジャパンの選手を目指してやれ。南海の広瀬を見とけ。社会人の広瀬になれ」っていって、松下電器で12番をもらったんです。それで広瀬さんを目標にして、大阪球場に見に行ってたんですから。

翌日の新聞で知ったドラフト指名

徳光:
でもプロ野球から話が来たわけですよね。

福本:
そうです。ドラフトで、山田(久志)、加藤…と来たときに7番目にあったんです。でも自分はドラフト関係ないと思うてるし、指名されるとも思うてなかったんで、指名されたのを全然知らないで、次の日に分かったんですよ。

徳光:
阪急から連絡とかはないんですか。

福本:
なかったです。会社にはなんか連絡があったらしいんですわ。でも、会社が僕に言うてくれなかった。次の日に電車の中で先輩から、「『7位に松下電器、福本』って新聞載っとるで」って言われて。

徳光:
ええっ。

福本:
それでも2~3週間くらい、何もなかったんですよ。

徳光:
そんな入団、そんなプロ野球入りってあるんですか。

福本:
ええ、電話も全然なかったですし。

徳光:
でもプロ入りを決めたのはどうしてなんですか。

福本:
これね、補強で行った広畑が優勝して、広畑の優勝旅行、あのときはオーストラリア旅行があったんですよ。そのメンバーの中で松下の選手5人は行けなかったんです。行かせてもらえなかった。それで、ドラフトにかかったもんですから、今度はプロに行こうかなと思った。

徳光:
あ、そうなんだ(笑)。旅行に行けなくて。

福本:
オーストラリアに行かせてもらっていたら、プロには行ってません。

徳光:
間違いなくそれは言えますか。

福本:
はい。それは間違いなく言います。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/2/25より)

「プロ野球レジェン堂」
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