新潟市の中心部に位置し、買い物や映画、イベントなどで多くの人が行き交う「万代シテイ」。商業エリアとして新潟を代表するエリアだ。しかし、この場所が最初から商業地だったわけではない。NSTに残るアーカイブ映像をもとに、万代シテイがどのように生まれ、姿を変えてきたのかを振り返る。

■1960年代 工場地帯のようだった万代地区から商業地区へ

1960年代の万代地区には、新潟交通の本社や整備工場、バス車庫、社員寮が集まり、現在のような商業エリアとはまったく異なる景観だったという。

高度経済成長の中でインフラ整備が進む一方、1964年(昭和39年)には新潟地震が発生。昭和大橋の倒壊や石油コンビナート火災など、市内各地に甚大な被害をもたらした。
万代地区も液状化現象により、新潟交通の建物が約1メートル沈下。バス車庫は倒壊し、街は一時、廃墟のような状態になったという。


■復興と転換 |「空いた土地」から始まった構想

その後、新潟交通は万代地区に集中していたバス車庫を、市内各地へ分散配置することを決断。災害リスクの軽減と利便性向上を目的としたこの判断により、万代地区には空き地が多く発生した。
この空き地を活用し、新たな商業地区をつくる構想が動き出す。


■1970年代|万代シテイの出発点はボウリング場

第二次ベビーブームの真っ只中、オイルショックによる物価の急騰などを背景に戦後の高度経済成長がピークを迎え、社会全体が転換期に差しかかった1972年(昭和47年)、万代地区に最初に建てられた施設が「万代シルバーボウル」だった。

当時は空前のボウリングブーム。2フロアで100レーンを備えた大規模施設で「1ゲーム100円」「長い待ち時間」だったという話も。
翌1973年(昭和48年)にはバスセンタービル、レインボータワー、そして現在のラブラ万代の場所にダイエーがオープン。ここで「万代シテイ」が誕生する。
レインボータワーは高さ100mの回転式展望台で、新潟市のシンボルとして長年親しまれた。

その後は、マクドナルドなどのファストフード店や、大型レジャー施設のジョイポリス、新潟伊勢丹のオープン、近年ではNGT48劇場など形を変えながら発展を続ける万代シテイ。その変遷については本編で詳しく紹介している。

NST新潟総合テレビ
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