「僕はやっていません。隣の部屋にいて、様子が急変してから気づいたんです」
大阪地裁近くの公園で、絞り出すような声で潔白を訴えた40代の男性。
交際相手の赤ちゃんに「揺さぶり」による暴行を加えたとして、傷害罪に問われている。
従来、乳幼児に「硬膜下血腫・網膜出血・脳浮腫」の3つの症状(SBS=Shaken Baby Syndrome=揺さぶられっ子症候群の3徴候)が見つかれば、それだけで激しく揺さぶった”虐待”とされてきた。
しかし、SBS事件の冤罪救済を担うチーム「検証プロジェクト」の登場により、2018年以降「病気や事故でもこの症状は起こりうる」とされ、無罪判決が相次ぐ異例の事態となっている。
もはや「3徴候」だけでの立件はできない。起訴に慎重な姿勢に転じた検察だが、新たな裁判で「頼みの綱」としたのは、ある学会が公表したばかりの“手引き”だった。
信頼に値する医学的知見か、それとも、新たな冤罪の温床か。
12人の医師が証言台に立ち、まもなく判決を迎える、ある「揺さぶられっ子症候群(SBS)」裁判。その最前線を報告する。
(関西テレビ報道センター記者・上田大輔)
■起訴された男性「してない証明難しい」
交際相手の赤ちゃんが急変した時、最後に一緒にいたのがこの男性だった。
激しく揺さぶる暴行による出血だったのか。それとも、病気による出血だったのか。
この日も法廷では医学用語が飛び交い、弁護人の隣に座る男性は必死でメモを走らせていた。
裁判の感想を尋ねると、男性は声を絞り出した。
「したことの証明よりもしてないことの証明っていうほうが、すごい難しい」
■母親がゴミ捨てから戻ると赤ちゃんが急変…「急性硬膜下血腫」に
2021年3月のことだった。
男性は、付き合って半年になる女性に会うため、仕事を終えいつものように愛知県から大阪に車を走らせた。
女性は単身で幼い2人の子を育てている。
週末は女性を休ませてあげようと、大阪に滞在している時間は、男性が2歳と生後4カ月の女の赤ちゃん・Vちゃんの育児を積極的に担っていた。
2日後の日曜日、夕方午後4時過ぎ。
ゴミ捨てに部屋を出た女性が、数分後に部屋に戻ってくると、男性がVちゃんを抱いて名前を呼んでいた。
Vちゃんは顔面蒼白で、目と口は半開き。目の焦点は合わず、ぐったりしていた。男性たちは、急いで車で病院に向かった。
エレベーターや病院内の防犯カメラには、男性が抱くVちゃんの腕が突っ張っる様子が映っている。けいれんの症状だった。
■約1年後 最後に一緒にいた男性を逮捕・起訴
急変から約1時間15分後、病院で行われた頭部CT検査で急性硬膜下血腫が見つかる。
より大きな病院から小児科医が駆けつけ、気管挿管などが実施されたものの、脳浮腫が進行し、Vちゃんは脳死に準じる回復見込みのない状態となった。
大阪府警が捜査を進め、男性は2022年2月に傷害の疑いで逮捕された。
勾留請求は認められず2日後に男性は釈放されたが、大阪地検はこの年の3月、「何らかの方法により、Vちゃんの頭部に衝撃を与える暴行」を加えたとして、男性を傷害罪で起訴した。
男性は当初から一貫して否認している。
■「揺さぶられっ子症候群(SBS)」裁判で相次ぐ無罪
2010年代に入り、赤ちゃんを激しく揺さぶって暴行したと疑われ、親などが逮捕起訴される事件が急増した。
根拠は、「赤ちゃんを激しく揺さぶることで、表面的な外傷はないものの、赤ちゃんの脳に重度の損傷が生じる」という「揺さぶられっ子症候群(SBS)」との医師の診断だった。
しかし、2017年に刑事弁護のスペシャリストである秋田真志弁護士と刑事訴訟法研究者の笹倉香奈教授(甲南大学)がSBS事件の冤罪救済活動を行う「SBS検証プロジェクト」を立ち上げた。
これまでは、身体の外側に怪我がなくとも、CT画像検査などで硬膜下血腫・眼底出血・脳浮腫の「3徴候」が見つかれば、揺さぶり(SBS)の可能性が高いとされ、次々に有罪判決が出ていた。
しかし、プロジェクトの調査により、家庭内の事故や病気が原因でも「3徴候」が生じる例が法廷で次々と明らかになった。
その結果、プロジェクトが関与した裁判で、2018年以降に無罪判決を言い渡された人は13人に上る。有罪率99.8%の日本の刑事裁判で極めて異例の事態だ。
■起訴に「慎重になっていた」検察が男性を起訴
2020年代に入ってからは検察もSBS事件の起訴に慎重になっていったが、2022年に大阪地検は男性を起訴。
男性は、秋田弁護士に公判の弁護も依頼。
秋田弁護士は、調査の結果、頭頂部に確認された硬膜下血腫は薄く、量も少ないことから、けいれん症状もあったVちゃんは低酸素状態が続くなど内因性(病気)による出血の可能性があるとの判断に至った。
Vちゃんの急変から4年。
2025年7月、ようやく男性の裁判が大阪地裁(三輪篤志裁判長)で始まった。
■検察がSBSで起訴した根拠…ある部位の”血腫”に着目
揺さぶるなど暴行があったとして男性を起訴した検察の根拠はどこにあるのか。
検察が当初から捜査の拠り所としたのが、小児脳神経外科医であるN医師の診断だった。
Vちゃんには硬膜下血腫など「揺さぶられっ子症候群の3徴候」がある。なのに、頭や身体の外側には目立ったケガはない。家庭内での転落事故などのエピソードも特にない。
原因は、「揺さぶり」などの外力か、それとも病気など内因によるものかということになる。
従来のような「『3徴候』を根拠にSBSの可能性が高い」とする診断には慎重な考えを持つN医師は、脳のある部位に着目した。
N医師が、着目したのは首のすぐ上に位置する、「斜台(しゃだい)」という部位。CT画像からVちゃんの斜台後面に血腫があると指摘した。
赤ちゃんを激しく揺さぶると、首が上下に動くことで、この部分に出血が生じたのではないかと主張し、「揺さぶり」があったことを示唆するという見解だ。
【N医師(小児脳神経外科)の証言】「斜台後面の血腫は外力によって起こってくることだということは言える」
■血腫は「虚像」か 別の医師が法廷で証言
N医師が証言した翌月、法廷には検察側・弁護側双方が呼んだ証人として、画像診断を専門とする放射線科医のM医師が法廷に立った。
M医師は、なんと斜台後面の血腫の「存在」自体を否定した。
【M医師(放射線科)の証言】「一見血腫のようにも見えますけれども、違ったものが一見病気のように見えることがあって。
血腫よりもアーチファクト(実際には存在しない虚像)の可能性の方が高いのではないかなと思います」
CT画像は、周囲から当てたX線のデータをコンピュータで複雑な計算をしたものが画像として再構成される。
そのため、条件によって計算ミスが生じる場合があり、実際には存在しない血腫が存在するかのように写る場合があるという。
検察が揺さぶりの根拠だとして着目した血腫は、そもそも存在したのかどうか、専門医の意見が分かれた。
捜査過程で重視した血腫の存在が疑わしいとなると、「揺さぶり」と判断した検察の土台も一気に傾きかねない。
しかし、検察は裁判でもう一つの大きな拠り所を準備していた。それは眼科医・A医師の証言だった。
■検察の新たな頼みの綱…眼科学会の新「手引き」
2025年11月、法廷に立ったA医師は、120ページを超えるスライドをモニターに映しながら、Vちゃんの眼の症状が起きるメカニズムについて自己の見解を述べた。
A医師は、Vちゃんには、病院に運ばれた日の翌日の検査で、両眼の全体に多くの網膜出血があることが確認されていると指摘。
これに加えて、A医師は、左眼の網膜がシワのようになる「ひだ」が確認できること、動脈と静脈の両方から出血していること等を強調。
これらは眼球の大部分を占めている透明なゼリー状の組織である硝子体(しょうしたい)が引っ張られたことが原因であると説明した。
A医師は自信に溢れた様子で、原因を次のように断言した。
【A医師(眼科)の証言】
「これは暴力的に極めて強く揺さぶる行為だけが可能である」
「内因性の原因では生じ得ない」
約3時間に及んだ検察側の尋問で、A医師が判断の根拠として強調したのが、自身が15年にわたって理事長を務める小児眼科学会など4つの学会が公表した「乳幼児の虐待による頭部傷害(AHT)の手引き〜眼底の診かた、考えかた〜」だった。
「手引き」はA医師が証言台に立つわずか1ヶ月前に公表されたばかり。
体裁からは一見、学会所属の眼科医が従うべき診断”ガイドライン”にも見えるが、執筆者は記載されていない。
一方で、国内文献としてA医師の論文が多く参照されている。
そのため、A医師が主要な執筆者なのではないかと考えた弁護側は、秋田弁護士が「執筆者は誰なのか」と追及したが、A医師は「執筆者は学会です」と繰り返した。
翌月、弁護側が求めた証人として、眼科医のK医師が証言。
Vちゃんの眼底出血は「揺さぶりなどの外力だと断定できない」とした上で、A医師の証言には根拠がないと指摘した。
【K医師(眼科)の証言】
「網膜がうっ血状態になって、血液がしみ出すような出血が来れば、網膜の表面より手前で内境界膜より下に出血すると考えられます」
すなわち、網膜の「ひだ」は、引っ張られて=「強く揺さぶられて」できたものではなく、「頭蓋内で、出血などによって脳圧が高まったことに伴う網膜での大量出血」によってできる形状だという。
このほか、A医師が外力の根拠として挙げた「動脈と静脈の同時出血」についても、論拠となる文献もなく、A医師の独自説だとして「根拠がない」と強く否定した。
検察側から7人、弁護側から5人、合わせて12人の医師が証言を終え、2026年1月16日、双方が最後に主張をまとめる論告と弁論を行った。
■検察の論告「眼底所見だけからでもSBS推認できる」懲役6年求刑
いつも公判に出席している検事は3人だったが、この日は1人。主任であろうその女性検事が検察側の席で立ち上がり、論告要旨の朗読を始めた。
特徴的だったのは、揺さぶりの根拠となる医学的所見について斜台後面血腫ではなく、眼底出血の主張から始めたことだった。
検事は、Vちゃんの眼の全体にわたる多数の出血と、網膜ひだは、それぞれが引っ張られた外力の存在を強く示していると強調し、次のように結論づけた。
「眼底所見だけからでも、Vちゃんは急変直前に頭部を強く複数回揺さぶられるなど、その頭部に強い衝撃を与える暴行を受けたことが合理的に推認できる」(論告要旨より)
検察がこの裁判で、眼底出血での立証に最も力点を置いていたことがあらためて明白になった。
内因性による出血とする弁護側の主張については「抽象的可能性とすら評価できない」と厳しく批判。
「男性なりに育児に協力し、女性を支えようとしていた中での一時のいらだち等による突発的犯行である」としつつも「刑事責任は重い」として、懲役6年を求刑した。
■秋田弁護士「けいれん重積、低酸素状態などで硬膜内出血」
一方、弁護側は、主任の秋田弁護士が証言台に立ち、まっすぐ裁判官の方を向いて手振り身振りを交えながら、無罪を訴えた。
「Vちゃんは、てんかん重積(繰り返し発作が生じ、発作の間に意識が戻らない危険な状態)を発症して以来、呼吸管理されるまで2時間半、治療を受けなかった。
脳は重度の低酸素状態に陥り、静脈血の鬱滞などさまざまな症状を引き起こし、硬膜内の脆弱な層で出血(それに続く硬膜下血腫)が生じた」と弁護側が辿り着いた原因を論拠となる医学文献も挙げながら説明。
検察側証人のN医師とA医師について、「不確かな揺さぶり仮説に憶測と解釈を加えることによって、ひたすら外力に結びつけ、内因を否定しようとする独自説で、確証バイアスそのものだ」と指摘。
(※確証バイアス…自分の見解を裏付ける情報ばかり集めてしまう思考の偏り)
A医師が根拠に挙げた学会「手引き」についても…
「A医師の独自説をもって揺さぶりやAHT(虐待)に断定的に診断できるかのような記述が繰り返されている」
「日本の眼科医のほとんどがSBS・AHT仮説の問題点を知らないにもかかわらず、この手引きを参考にする事態となれば、多くのえん罪、誤った親子分離を生むことになりかねない」との強い懸念も示した。
城使洸司弁護士が続く。
「Vちゃんの名前の漢字を考えたのも男性。出産時に女性を病院に連れて行ったのも男性だった。毎週大阪に来ていたのは、女性と結婚して、子どもの父親になるという覚悟からだった」
裁判で明らかになった男性の人となりを一つ一つ振り返り、最後の言葉に力を込めた。
「男性は普段から暴力的な言動・対応もなく、Vちゃんに暴行を加えることなどあり得ない。えん罪を防ぐことができるのは裁判所だけです」
弁護側の席でじっと耳を傾けていた男性は、少し視線を落としながら、何度も鼻をすすっていた。
■判決は3月…裁判所は何を裁くのか
全ての審理が終わり、弁護団は会見を開いた。隣の秋田弁護士から一言話すよう促された男性は「弁護士さんのおかげで、自分の潔白を証明できたんじゃないかなと思います」と短く話し、両隣に座る弁護士に丁寧に頭を下げた。
「起訴されたらほぼ有罪」
圧倒的な有罪率を知った男性には、刑事裁判は自身が無実を証明しないといけない場だと感じていたのかもしれない。
しかし、弁護側が揺さぶり以外の原因(内因であること)を証明する必要は本来ない。
そもそも刑事裁判は、出血原因が外力か内因かを医学的に確定する場でもない。
裁判所が判断するのは、「揺さぶり以外の原因では生じないことを検察が証明できているか」。
そして「医学的所見だけでなく、男性の動機や事件前後の言動なども総合的に判断して男性が暴行したことが間違いないと言えるかどうか」である。
判決は、3月13日に言い渡される。