2025年11月29日(土)。13年間のプロ生活に別れを告げた北海道コンサドーレ札幌の深井一希。U-17ワールドカップ出場、5度にわたる膝の手術。決して順風満帆とは言えないが、彼のみにこそ紡ぐことのできた上り下りの足跡を、現役ラストマッチ翌日に敢行した「コンサラボ」(UHB北海道文化放送)独占インタビューで発した言葉とともにたどる。
「自分には、到底敵う選手じゃないなと」
深井一希にそう言わしめた存在、それはアカデミーの1学年先輩・荒野拓馬。出会いは中学時代であった。
「中学生の時から高校生の練習に混じって、高校生の時は(特別指定選手として)トップチームに行ったり、常に先を行く存在でした。拓馬君がいたからこそ、僕もそこに追いつこうという気持ちが強かった。僕の成長を助けてくれた存在だった」。相棒であり、ライバルであり。ふたりの出会いが、札幌アカデミー黄金期の起点になったとも言えるだろう。
深井がU-18で過ごした3年間でともにプレーした選手を見渡してみれば、2学年上に松原修平(水戸)。1学年上に荒野拓馬、奈良竜樹(福岡)、前貴之(千葉)。同学年には堀米悠斗(新潟※)、神田夢実(傑志/香港1部)。1学年下に前寛之(町田)、國分将(八戸※)。2学年下には進藤亮佑(C大阪)と、いわゆるアラウンドサーティーを迎えた現在に至っても、プロとしてピッチに立つ選手は多い。(※所属クラブは2025年シーズン)
中でも荒野拓馬の世代はアカデミーから5人がトップへ。そして、深井一希の世代は6人の大量昇格を果たした。今ほど大学サッカーを経由する意義が確立していなかったとはいえ、この数字は育成という面で北海道コンサドーレ札幌というクラブが一つの到達点を迎えたことを象徴していた。
その中心にいた荒野拓馬と深井一希。長年、ボランチでコンビを組むこととなるふたりのストーリーそのものが、のちに訪れるクラブのいち時代とイコールになっていくこととなる。
現役最終戦の試合後、荒野拓馬は「一希は中学生から一緒で、常に横には一希がいて、お互いがお互いを助け合って、全国でも優勝して。そのパートナーがトップに来て、僕たちの力でJ1に上げて。8年もの間、コンサドーレがしっかりJ1で戦えて」と、深井と歩んだ道のりを、今にも消え入りそうな微かな声で回顧した。
しかし、その眼には2023年の小野伸二現役ラストマッチの後に「勝って送り出せなくて、悔しいです」と、浮かべていた涙はなかった。相棒の喜びも苦しみも、常に隣で一緒に味わってきたからこそ、その引き際に誰より納得がいっていたのかもしれない。
「入って4年間はJ2だったので、本当に苦しい時代を過ごしてきました」
鳴り物入りでトップ昇格を果たした深井一希は2013年3月、ホームで行われたJ2第4節vs松本山雅FCで早くもプロとしての第一歩を踏み出す。後半27分にピッチを去るまでプレーし、クロスバーを叩くミドルシュートを放つなど、そのポテンシャルを証明するには充分の活躍を見せた。しかし、J1昇格の壁は高かった。
ルーキーイヤーの2013年は19試合に出場し、チームは8位。2014年は3試合の出場にとどまり、10位。2015年には15試合出場で10位フィニッシュ。「自分たちが中心となってやっていけば、絶対J1でやっていけるという自信があった」という当時の胸中通りには運ばなかった入団からの3年間。深井はこの期間で実に3度、前十字靭帯を断裂。彼の不在は、既にチームの大きな痛手となっていた。
札幌にとって、のちのJ1昇格・定着の契機となったのが2015年7月、四方田修平氏のトップチーム監督就任であった。2004年から11年半にわたりU-18の監督を務め、当時のアカデミーを全国屈指の強豪に育て上げた深井の恩師は、ベテランと教え子たちを併用し、就任翌年の2016年にJ2優勝・J1昇格を成し遂げた。このシーズン、深井自身も当時のキャリアハイとなる25試合に出場。それでも、2012年、2013年にU-18から大量昇格した計11選手のうち、この年に定位置を確保していたのは、荒野拓馬、深井一希、堀米悠斗の3人のみであった。
「裕樹くんはちょっと年も上で、もっともっと苦しい時代を経験しているので。僕たちの世代に、プラス裕樹くんの色々な経験が詰まって、凄くいい時代を過ごせたと思いますね」。
このシーズンを最後に、堀米がアルビレックス新潟へ完全移籍することを考えれば、荒野拓馬・深井一希、そして現在もチーム最古参としてプレーするバンディエラ・宮澤裕樹、この3本柱を中心に、クラブのいち時代がつくられたと言っていいだろう。
「どんな状況でも、諦めなければ奇跡は起こるというのを、自分のゴールで体現できた」
深井自身の胸に最も深く刻まれた試合、それは2019年のYBCルヴァンカップ決勝vs川崎フロンターレ。会場となった埼玉スタジアム2〇〇2のスタンドで、全国中継されたテレビ画面の前で、全ての札幌サポーターが固唾をのんだ1点ビハインドの後半アディショナルタイム5分。敗北が目の前に迫った、まさに土壇場の状況で福森晃斗のコーナーキックを頭で合わせたのは、幾度の大怪我に見舞われながらも、折れず腐らず這い上がり続けた“不屈の男”であった。
試合後に「色んな方々の声援や思いが乗り移ったゴールだった」と振り返った通り、サポーターの願いを一身に受け、自ら背負ったドラマを体現する“北海道民の思い”を乗せたゴールは、29年を数えるクラブ史のハイライトに違いない。
「北海道は、他の地域と比べて良い選手が少ないと昔から言われてきました。その中で、自分含めアカデミー出身・北海道出身の選手が今、こうやってレギュラーで試合に出ている。今後そういう選手たちが日本代表になって、“北海道は凄いんだ”というのをもっともっと見せていけるように頑張りたい」。
激闘を終えた直後に飛び出したこの決意は、彼のセカンドキャリアにとってもまた、大きな指針となるはずである。
「色々と見つめ直して、クラブとして変わっていかなといけない」
昇格が消滅したJ2第35節vsジェフユナイテッド千葉(A)の試合後、24試合ぶりにピッチへ戻ってきた深井は、警鐘を鳴らした。
引退会見で、この発言の真意を改めて尋ねると、返ってきたのは「僕はこの13年間いて、良い時と悪い時の両方を見てきました。最近でいうと、アカデミーから上がってくる選手がなかなかいなかったり、即戦力になれていないというのが、ひとつ課題かなと。高卒でもチームの即戦力になれる選手を、まず育成していかなきゃいけない。育てて、しっかり試合に出て、チームを代表する選手になった時に、他のチームに引き抜かれてしまったりということもあった。そこでチームが、その選手を残していくというところを頑張れないと、やっぱり大きくなっていけない。生々しいところで言うと、お金でこのチームに残していけるのか。もしくはこのチームの魅力で残していけるのか。そこはわからないですけど、ここでもっと戦いたい、タイトルを獲りたいという選手を残していける、そしてもっと大きくなっていくように、チームとしては考えていかないといけないんじゃないかなと思いますね」という言葉であった。
これが、この会見中で最長の回答であったことに、その発言の重みが表れていた。
「とにかくこのチーム・アカデミーを強くすることに全力を尽くして」
”クラブに変化を”。深井一希は、アカデミー指導者として具現化させていくことになる。
「自分は何もわからない状態で(指導者の世界に)入るので、たくさん勉強して学んでいかないといけないのと同時に、僕も実際に選手としてそうだったんですけど、人として魅力があったり、この人についていきたいと思えなければ、サッカーのことを言われても耳に入ってこない。そういったところは自分がよくわかっているので、まずは人として自分がしっかりしていかなきゃならない。自分をもう一回見つめ直して頑張っていきたい。自分の名前だったり、キャリアだったりというのは関係なく、その選手を成長させるために寄り添っていきたいと思います」。
数年前、札幌市内のサウナで、香港プレミアリーグの中断期間を北海道で過ごしていた同期の神田夢実に、指導法・練習メニューについて語る彼に鉢合わせたことがある。リフレッシュの最中にあっても、サッカーに頭を巡らせる深井一希であれば、「選手のために寄り添う」ことなど、実に容易いのではないだろうか。
影響を受けた指導者を尋ねると、「そこはやっぱりミシャさん。何をどうしたら、という落とし込みのところはやはり凄かったですし、自分もしっかり学ばなきゃいけないかなと思います」と、やはり名将の名が挙がった。それでも、描くフットボール像は深井一希のオリジナル。
-ペトロヴィッチ監督のようなサッカーを目指す?
「いや、サッカー自体は自分の思っているものを。シャビ・アロンソ(レアル・マドリード監督)のサッカーが好きだとかもありますけど、真似したって何も始まらないので」
これからは、アカデミー黄金期を再び築くミッションを掲げつつ、トップチームの指揮が可能となるJFAProライセンス取得に向かっていくこととなる。どちらの道のりも、決して平坦ではない。しかし、“深井一希であればこそ”。彼の存在は、そんな希望を抱かせる。今後もクラブの大きな財産のひとつとして、残り続けていく“不屈”の精神。他の誰にも真似できないサッカー人生を送ってきた男の第2章が、いま始まる。(了)
引退翌日に行った深井一希独占インタビューは、12月24日(水)の「コンサラボ」(UHB北海道文化放送・北海道ローカル放送)で余すところなく放送します。