太平洋戦争末期、爆薬を積んだボートで敵艦に突っ込む「海の特攻隊」が結成され、多くの若者が命を落としました。戦後80年、当時の記憶が失われつつある中、戦争を語り継ぐことが難しくなりつつあります。

■ベニヤ板のボートで敵艦に…「海の特攻隊」

三重県鳥羽市安楽島町(あらしまちょう)。ここに戦時下に造られた「海の特攻隊」の基地が残されています。

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81歳の傍島寛(そばじま・ひろし)さんは、安楽島町で10年前から戦跡を調査し、広める活動をしています。

安楽島歴史探訪会の傍島寛さん:
「ここの基地には170人の人間が軍隊としておりました。170人のうち特攻隊は約50人」

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基地へと進む道のりは険しく、木が道を阻むように倒れ、毒ヘビのマムシも姿を現します。

道なき道を進んでいくと、ひっそりと残された大きな穴がありました。奥行きは7、8メートルあります。

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当時、兵隊たちが手掘りで作ったという壕は、コの字型の作りから、無線基地だったと推測されます。

傍島さん:
「特攻隊の中の『震洋』基地ですね。海の特攻隊です。安楽島の方はほとんど、この基地のことは知らずにおります」

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海軍の特攻艇「震洋(しんよう)」は、ベニヤ板で造られたモーターボートで、250キロ爆薬を搭載し、敵の艦艇に体当たりする特攻兵器です。

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傍島さん:
「操縦士1人。速力として23ノット(時速45キロ)しか出ないので、敵の戦艦は32ノット(時速60キロ)でるということで、とても追いつけないので、奇襲作戦を考えていました」

終戦後に、特攻艇はアメリカ軍に回収されました。彼らは「自殺ボート」と呼んでいました。

■「愚かな戦争やった」マルレ元特攻兵の記憶

「震洋」は太平洋戦争末期、悪化の一途をたどる戦局を挽回しようと開発された秘密兵器で、海軍だけでなく陸軍にも同様の特攻艇が配備され、陸軍では「マルレ」と呼ばれていました。

岐阜県多治見市に住む、佐野博厚さん、97歳。「マルレ」の元特攻兵です。

マルレ元特攻兵・佐野博厚さん:
「『これから名前を呼ぶものは一歩前に出よ』ということで名前を呼んでいって、船舶練習部第十教育隊(マルレ部隊)に転属命令という、命令ですわ。いよいよ特攻隊員で身を捧げる時が来たなと覚悟しましたね」

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佐野さんは15歳で自ら志願して陸軍に入隊し、17歳の時にマルレの訓練基地への転属を命じられました。

佐野さん:
「目標に向かって体当たりする訓練ばっかり。訓練中に体当たりしていた時に、エンジンが止まって動かんことがあったもんで、手でこいで帰った覚えがあるけどね」

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当時、佐野さんが寄せ書きに記したのは「玉砕精神」。命を投げ出すことへの恐れはありませんでした。

佐野さん:
「怖くない。怖いなんて言うことは全然なかったね。いよいよ国のために身を捧げる。一番は国のために、国の安泰を守るために我々は逝くんだと」

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小学6年の時、陸軍に1日体験入隊した佐野さんにとって、兵隊は憧れの対象だったといいます。

佐野さん:
「兵隊さんと食事も一緒だしね、訓練を見学してね、今でいう職業体験やね。我々の時はね、『大きくなったら兵隊さんになる』とか、『海軍大将になる』だとか。そういう教育受けているので、自然に身についちゃってる」

訓練を終え、特攻命令を覚悟していましたが、本土決戦に備え、部隊が熊本県に展開したところで、終戦を迎えました。

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佐野さん:
「戦後、アメリカの軍事作戦の予定が公表されたけれども、(秋ごろに)日本本土に上陸する予定しとったらしいですね。もし終戦が伸びておれば、おそらく出撃しとっただろうと思う。愚かな戦争やったなと思うよ。戦争というものは人と人の殺し合いだもんな。まったく愚かな戦争だと思います」

“太平洋を震撼させる”という意味で、名付けられた「震洋」。

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この特攻作戦で2500人以上の命が失われ、そのほとんどが16歳から25歳の若者たちでした。

■「最後の特攻基地」後世に残すために

日本各地に置かれた「震洋」の部隊。最後に作られた146番目の基地が、宮城県東松島市の宮戸島にあります。

96歳の千葉均さんは、基地の存在を後世に残そうと、この島で活動してきました。

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千葉さん:
「(Q兵隊は何をしていた?)洞窟掘りしていたの。洞窟を掘って、震洋を作って、震洋の基地に運ぶ予定だった」

暗いトンネルを抜けた先にある数々の穴は、「震洋」を保管するための格納庫として作られました。

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海へと続くレールは「震洋」が出撃するためのものでしたが、実際は、配備される前に終戦を迎えました。

千葉さん:
「終戦後行ったらね、ダーッと滑走路が40~50メートルくらいあったんでしょうね。そこから出撃する予定だったそうです」

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特攻は“極秘作戦”だったため、千葉さんは戦争が終わるまで、基地の存在を知りませんでした。

千葉さん:
「昔のことを分かっている人が今いなくなっているでね。自分が知っていることを後世に残すっていうことも大切だからね。私も自分のできる範囲内ではやるっていうことにしたんですね」

千葉さんは「震洋」に関する情報や資料を集めてきましたが2011年、東日本大震災で自宅が流され、そのすべてを失いました。

千葉さん:
「残念だなとは今でも思いますけど、なんとも仕方のないことなんだわね、自然の災害だからね」

島の入り江にひっそりと残る「海の特攻基地」。最近は、SNSなどで知った若者たちも訪れますが、管理する人はおらず、いずれ朽ち果てる運命です。

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千葉さん:
「平和な時代になってきて、過去のものになりつつあるね。忘れられていくんだわね。歴史っていうのは繰り返し続けて忘れられる。何年もそういうこと調べてて、後世に残しておかないとね、やっぱり正しいことを記録に残しておかないと」

マルレ元特攻兵・佐野博厚さん:
「我々の体験をよく反省して、次の時代に申し送る。その人が次の世代に。こういう伝承は我々の使命やと思う。受けた人も次の代に申し送る使命があると思う。戦争のない平和な時代を長く永久にね」

東海テレビ
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