車中泊で全国を旅する29歳の女性画家がいる。その女性画家が1年間の定住先に選んだのは、新潟県弥彦村にある国登録の有形文化財『旧鈴木家住宅』だった。歴史的な古民家で暮らしながら描くのは、たたみ20畳分に広がる“巨大な絵”。2カ月の制作期間に女性画家が抱いた葛藤や迷い、そして完成後の思いに迫った。
女性画家 歴史的古民家で創作活動
新潟県弥彦村にある国登録有形文化財・旧鈴木家住宅に暮らしている、アニー・レナ・オーバマイヤーさん(29)。

2025年7月、広い和室の床一面に並べられた板に、ペンキやアクリル絵の具を使い、思い思いの色を重ねていた。
アニーさんは絵を描きながら「この旧鈴木家住宅の中庭や弥彦の切り取られた空の色に、日々影響受けている」と語る。
趣ある建物や弥彦の自然からインスピレーションを受けながら、制作に打ち込んでいるようだ。
「人生の大掃除」大事にするものを見極めるための挑戦
アニーさんが弥彦にやってきたのは2025年6月。
アーティストが一定期間、特定の場所に滞在し、創作活動を行うアーティスト・イン・レジデンスに挑戦してみないかと、プロジェクトの企画者・森田幸尚さんに誘われ移住を決意した。

それまで2年以上車中泊で全国を旅していたアニーさんにとって、それは大きな決断だった。
この決断に至った思いについてアニーさんは「今年で30歳を迎える節目の時に“人生の大掃除”をしようと思っている」と明かした。
長い間、人が住んでおらず、ほこりがたまっていた旧鈴木家住宅。
大掃除をしていた時に、今の自分には何が必要なのか、大事にするものは何なのか、見極めていきたいと感じたという。
自分を見失い絵に表れた“恐れの感情”
しかし、制作期間は孤独との戦いでもあった。様々な葛藤がアニーさんにはあった。

「『私の絵って何なんだろう』『これ、どのように届けたら喜んでもらえるのだろうか』と考えているうちに大迷走した」
すると、その心情は絵にも表れていた。
キャンバスにはガイコツだらけの道が広がり、無気力な人の足や、こんなふうに死にたくないと思うような状態のものを描くようになったという。
思い詰めるうちに自分を見失い、絵に“恐れの感情”のようなものが表れ始めたのだ。
当時についてアニーさんは「気持ちが落ち込む中で、“本物”ってなんだろうと考えた時間があった。結局、本物とは何か具体的には分からなかったが、逆に偽物が何かは明確だった。私にとっての偽物は『こんなものでいいか』という妥協だった」と話す。
“本物の画家”に近づくため、一切の妥協をしないことを決めたアニーさんは、制作開始から1カ月、絵のテーマを変える決断をした。
次に進むための大きな決断
もともと決めていたテーマは、アニーさんが弥彦を訪れる道中、記憶に焼き付いたという日本の“山道”。
しかし、恐れの感情が表れていた部分は塗りつぶし、描き直すことに。
完成が近づいた8月には「白骨化したガイコツは絵の下に埋めた」と吹っ切れた表情で語っていた。
弥彦で見た“夢の断片”を描く
新たに定めた絵のテーマは『夢』。
アニーさんが手がける大きな絵は完成後、分割してクラウンドファンディングの支援者に返礼品として届けることからイメージしたという。

アニーさんは「この大きい全貌を誰も知らないまま、小さな一枚が届くというのは、夢の断片を少し覚えているけど、全体を思い出せないみたいな、そんなところとシンクロするなと思ってテーマを『胡蝶の夢』に変えた」と話す。
夢かうつつか…弥彦で育んだ感性で描く曖昧な夢の情景を絵に落とし込んでいく日々が始まった。
ただ、この絵…完成したとしてもその全貌を見ることはできないとプロジェクトを企画した森田さんは話す。
「非公開にしたのは、支援者様が購入したので、支援者様の特権にしたいというところがあった」
絵を受け取った人にその全貌を想像しながら楽しんでほしい…ゆっくりとした時の流れの中で筆が重ねられていった。
完成の瞬間 画家の願いは…
そして、制作開始から2カ月。ようやく20畳の巨大な絵が完成の時を迎えた。

絵を描き終え、筆を置いたアニーさんは「長い2カ月だった。でも、楽しくてパーツごとでも、全体としてもすごく好きだし、長く付き合ったなという感じがする」と安堵の表情を見せていた。
また、絵は暮らしの中の窓のような存在だと話し、「手に入るのが作品のほんの一部でも、それが違う世界へ連れていってくれる。想像力をかき立たせるものになれば」の願いを込めていた。
また、完成を迎え、企画者の森田さんは「『何か楽しいことやっているよね』と、見向きもされなかったこの旧鈴木家住宅に息が吹き込まれるだけで、それが少しずつ人の心を動かすのではないか」とアーティスト・イン・レジデンスの可能性に期待を寄せていた。
描き上げた夢の断片 行く末は
完成から1週間。一部が抜き取られ、抜け殻のようになった絵を前に寂しさを覚えながらもアニーさんは車に乗り込んだ。

弥彦や近くに住むクラウドファンデングの支援者に、直接絵を届けにいくというのだ。
最初に訪れたのは、弥彦村の図書館。ブックディレクターを務める男性が支援者で返礼品を図書館に飾ることにしたという。
絵を見た瞬間、笑顔を見せる徳永絹枝館長。贈られたのは、眠る女性の耳元に鳥が物語を囁いているような一枚だ。

アニーさんは贈る相手を思い、連想される一枚を大きな絵の中から選んでいた。
徳永館長は「白い羽の鳥が躍動的で、元気をもらえる明るい絵。図書館のシンボルとして、大切に飾りたい」と笑みを見せた。
そこからは、弥彦のスコーン専門店や長岡市のカフェなどを周り、次々と支援者のもとを訪ねていったアニーさん。
絵を受け取った支援者は26年5月に開かれるアニーさんの個展で返礼品が抜き取られた大きな作品を見て想像を膨らませることになる。

支援者の1人、篠宮航太さんは「個展まで、僕はこの絵だけを見て、この絵からだけのイメージで大きな絵を想像することになる。穴が空いている絵に、自分の絵があったらどう変わるのか、この絵を持っている自分の特権的な楽しみ方もできるのかなと、それも楽しみ」と期待に胸を膨らませていた。
人々の手に渡り、それぞれの生活に寄り添う夢の断片は、弥彦とアニーさんをつなぐ第一歩として深く刻まれた。
迷いや葛藤乗り越え始まる新たな挑戦
その日の夜、アニーさんは地域の人と絵の完成を祝いパーティーを開いた。

乾杯をすると「ビールは仕事終わりが一番おいしい」と達成感に満ちた表情を見せたアニーさん。
制作期間を振り返り「あの作品が、弥彦に入った第一歩という感じがする。あの絵には迷いや葛藤があるが、そうした過程があるからこそ次へ進んだという気もしている。あすからは新たな制作の日々を楽しんでいく」と目を輝かせていた。
季節は夏から秋へ移ろい、聞こえてくる鈴虫の声。
アニーさんの次なる挑戦を応援するかのように美しく鳴り響いていた。