戦後80年、戦争遺跡の「地下壕」の今を考えます。「本土決戦」の準備や空襲に備えた工場の疎開に伴い、長野県内には終戦までいくつもの地下壕が掘られました。こうした戦争遺跡は、80年前の戦争を追体験できる場として重要性を増しています。

■戦争の歴史を伝える地下壕

NPO法人「松代大本営平和祈念館」のガイド:
「何であんな戦争を起こしてしまったのか。もう二度と起こさないためにはどうしたらいいのか。それを知るための手がかりが、この実物の地下壕なんです」

戦後80年のこの夏、長野市の「松代大本営・象山地下壕」には多くの見学者が訪れています。

太平洋戦争末期、「本土決戦」に向けて、国の中枢を移そうと松代では3カ所に壕が掘られました。昭和天皇の住まいや待避所に想定された場所は戦後、気象庁の観測施設となり現在も残っています。


松代で最も大きい象山地下壕のうち500メートルは1990年から長野市が公開していて、NPO法人「松代大本営平和祈念館」がガイドを派遣しています。

NPO法人「松代大本営平和祈念館」のガイド:
「これ(模擬のダイナマイト)は穴を開けた所にピタリと入るんですよ」

見学に訪れた長野市の中学生を前に、削岩機が開けた穴に模擬のダイナマイトを差し込むなどして、80年前の工事の様子を伝えます。

2024年度に訪れた人は4万6000人。もし「本土決戦」が起きていたら、長野が戦場となることもあり得たことを実感させる貴重な戦争遺跡です。

見学した中学生:
「怖いですね。戦争って」
「地下壕がこうしてちゃんと残ってるのもすごいと思いました。私たちが見学できるのも残してくれた人のお陰だなって思います」


象山地下壕から600メートル程の場所にこの秋、NPOの悲願だった平和祈念館がオープンします。

関係者は、壕について学べる資料の展示や、ガイドを養成する拠点として期待しています。

NPO法人「松代大本営平和祈念館」・花岡邦明・理事長:
「戦争を直接体験された方々が亡くなったり高齢になったりしています。そういう歴史を後々へつないでいくためには、地下壕のような遺跡や資料館がますます重要になってるんじゃないかと思っています」


本土決戦の準備は善光寺平一帯で進んでいて、松代から北に15キロほど離れた長野市安茂里地区には海軍が掘った「大本営海軍部壕」が残っています。

100メートルほど掘ったところで終戦となり、住民有志の「昭和の安茂里を語り継ぐ会」が予約制で案内しています。

地域の歴史を学ぶきっかけにと、地元の小学生への伝承にも力を入れています。


■「戦争遺跡」失われる可能性も

長野県世論調査協会が「戦争遺跡の保存・活用について」県民に聞いたアンケート調査では「大いに保存・活用の機運を高めるべき」と「ある程度考えるべき」を合わせ、積極的な回答が73.4パーセントに達しています。

ただ、こうした「戦争遺跡」で文化財に指定されているものは少なく、行政や住民有志の支え無しでは開発等で失われる可能性があります。


■崩落で人目に触れなくなった地下壕

既に人の目に触れる機会が無くなった場所もあります。

松本市里山辺の金華山(林城山)では終戦の年、航空機の地下工場が造られていました。

空襲を避けて名古屋から松本に疎開した工場を更に移転するのが目的で、1945(昭和20)年4月以降、里山辺から南の中山地区にかけて地下式や半地下式で着工されました。

金華山の壕は、地権者から管理を委ねられた市民団体「松本強制労働調査団」が見学会を開いていましたが、3年前に崩落があったのをきっかけに現在は一般に公開していません。

■奥には不発のダイナマイトが

7月20日、調査団の若手グループが内部を撮影するのに同行させてもらいました。

調査団:
「頭ぶつけた」
「すごい所行くなあ」

壕の中はところどころ崩れ、腰をかがめないと通れない場所もあります。

侵入者に気づいてコウモリも飛んで来ました―。


80年前の痕跡はあちこちに。壁に「130」と書かれた数字が残っていました。

調査団メンバー:
「数字は入口からの距離だと思います。ちょうどこのあたりが130メートルくらいですから」

松代と同じように削岩機が開けた穴も残っていて、奥には不発のダイナマイトが残っているそうです。


近くの民家に残されていた工事計画の図面によると、壕は碁盤目状に掘られ、出入口は17カ所想定されていました。

計画した約3キロのうち、終戦までに40パーセントほどが掘られたとみられますが、現在、人が出入りできるのは1カ所だけです。

調査団のメンバー:
「高さ2メートルくらいのところに文字が書いてあるの見えますか。天主って書いてあります」

「天主」とは朝鮮半島で盛んだった天主教、つまりキリスト教の神のことではないかとみられています。

調査団や松本市の調べでは、工事には軍や勤労動員の日本人も関わっていましたが、松代と同様、掘削作業の中心は朝鮮半島から来た人たちでした。昼夜2交代で最も危険を伴う作業をしていたとみられています。


■想像を超えるつらさ…

(当時掘削作業をしていた金今出さんの証言/1986年の講演から)
「何せ岩山で固いこと固いこと。発破で穴の奥を崩してから掘り進んだんですが、かみそりのようになった石を踏んで仕事をするので地下足袋はすぐに切れ、わら草履は半日と持たなんだですね。裸足が多くて足からいつも血が出ていました」

参加者:
「たぶん想像を超えるつらさだっただろうなと思うんですよね」
「想像するだけでも苦しいなと思いますね」

工事は、着工から約4か月後の1945(昭和20)8月15日の終戦とともに終わりましたが、犠牲者やけが人の正確な数はわかっていません。


地下壕の中に入って約1時間、錆びたレールがありました。「ズリ」(砕いた岩)を捨てるトロッコの物とみられています。

終戦後、ほとんどの資材が持ち去られる中、なぜ残ったかはわかっていません。


■フォーラムで掘削作業を実感

松本強制労働調査団のメンバー:
「里山辺の地下壕は聞いたことある、知ってる方がどれくらいいるでしょうか?」
「3分の1ぐらいですね」

7月5日、調査団の若手グループは松本市で開かれた「信州の若者がつむぐ平和創造フォーラム」に参加していました。

掘削作業を実感してもらおうと、壕から運んできた「ズリ」にも乗ってもらいました。

参加者:
「両足で立ったら結構きついです。これでは歩けない」


■「戦争遺跡」残すには安全確保が課題

かつて見学会などで壕を案内していた平川さんは、負の側面も含めた歴史を伝える貴重な場所として再び見学できるようにしたいと話しますが、安全の確保が課題です。

松本強制労働調査団・平川豊志 運営委員:
「ここは入口が一番崩れやすいってことがあって、その手当てを考えないと普通にただ公開っていうわけにはとてもいかないです。何とか入口から中をのぞけるくらいの整備ができて後世に伝えていければ良いのですが」


調査団の若手グループは壕を広く知ってもらうため、新たに撮った映像を再編集し、過去の聞き取り調査をデジタル化して整理する作業を進めています。

松本強制労働調査団のメンバー:
「松本で戦争といってもピンと来なかったのですが、こうしてすぐ近くに里山辺の地下壕があったり働いていた方の証言が残っていたりするんですね。それを知ることで戦争の空気感とか戦争のときに一般の方々もどんな大変な思いをしていたことを感じ取ったり、学んだりすることは私たちにとってはすごく大事なことだと思います」

記憶を継承する場として「戦争遺跡」をどう残し、伝えていくか。その道筋を探る試みが続いています。

長野放送
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