太平洋戦争末期、旧日本軍は敵の艦船に飛行機などで体当たりする特別攻撃「特攻」を行った。その搭乗員のほとんどは少年兵や学徒出陣による10~20代の若者で、亡くなった人の数は全国で6000人以上に上る。この特攻で同期6人を亡くした元特攻要員の男性が秋田市にいる。戦後80年の今、男性は何を思うのだろうか。

“飛行機に憧れて”入隊する若者たち

太平洋戦争末期、戦争が終わる10カ月前の1944年10月、日本海軍はフィリピンでの海戦で初めて、体当たりでの特別攻撃「特攻」を行った。

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一時しのぎの策ともみられていたが、予想外の戦果を挙げたため陸軍にも拡大し、終戦当日まで続けられた。

特攻作戦の戦死者数は6371人に上る。

秋田市の総社神社にある「特別攻撃隊忠魂の碑」
秋田市の総社神社にある「特別攻撃隊忠魂の碑」

秋田市の総社神社の一角に、秋田県の特攻戦死者を弔うために建立された慰霊碑がある。県出身者は56人が特攻隊に加わり、戦死した。

元特攻要員の藤本光男さん(98)
元特攻要員の藤本光男さん(98)

当時、海軍に特攻要員として召集されていた藤本光男さん(98)。秋田・能代市出身の藤本さんは、1943年に海軍航空隊に入隊した。同期入隊した県出身の6人を特攻で亡くした。

藤本さんは「同期生はみんな、戦争が好きだという人はいなかったが、精神的なところは一致していた。“飛行機に憧れてくる”。戦争に俺も参加したいという極めて単純な気持ちで入ってきていた」と入隊当時を振り返る。

一人前になっても待つのは“死”

藤本さんは1945年4月から4カ月間、静岡県の藤枝基地で夜間戦闘のための爆撃機に偵察員として乗り込み、明け方、夕暮れ、夜間の急降下攻撃の訓練に明け暮れた。

偵察員として訓練に明け暮れていた頃の藤本さん
偵察員として訓練に明け暮れていた頃の藤本さん

藤本光男さん:
夜の訓練を終えると明るくなってくる。明け方・夕暮れ・夜間の3つに分けて、毎日の訓練。これだけの訓練をやって、ようやく腕前も一人前になったなと思ったら「あとは死ね」だから。

なぜ普通でいられたのか…今は不思議

特攻隊の軍人といっても、大半が10~20代。今と変わらない若者たちの姿があった。

藤本さんにも特に仲が良い同期がいた。

藤本さんと仲が良かった山本英司さん(秋田・仙北市出身)
藤本さんと仲が良かった山本英司さん(秋田・仙北市出身)

角館小学校(秋田・仙北市)出身の山本英司さん。予科練のときに仲が良く、一緒に風呂に入ったりしていたという。

山本さんが「秋田県では一番」と自慢していた角館の桜
山本さんが「秋田県では一番」と自慢していた角館の桜

山本さんは「桜は秋田県では角館の桜が一番だな」と角館の自慢話をしていたと、当時を懐かしむように語る藤本さん。

しかし、山本さんは沖縄で零戦機に乗って敵の戦艦に体当たりして戦死した。18歳だった。

同期の死を聞いたとき、不思議と驚きはなかったという。

当時の心境を振り返り「なぜ普通でいられたのか今は不思議に思う」と語る藤本さん
当時の心境を振り返り「なぜ普通でいられたのか今は不思議に思う」と語る藤本さん

藤本さんは「われわれだって、こっちの隊に行けば遠くに行くかもしれない。父親母親、じいさんばあさん、兄弟のことは脳裏をかすめたが、特別に『じゃあ改めて行ってきます』とか、そういう観念はなかった。普通だった。出撃の命令がくれば『じゃあ行ってきます』と。どうしてああいう心境だったのか、今は不思議。それが今の高校3年生と同じ年頃。にこにこと笑って、飛行機に爆弾を抱いて乗って飛び立っていって、あと帰ってこないんだから」と当時の心持ちを語った。

「良い国になった」と伝えたい

藤本さんは、1993年から毎年4月に行われている特攻隊の招魂祭で、一度も欠かさずに追悼の言葉を送っている。戦後80年となるこの8月も変わらずに仲間を弔った。

藤本さんと同期入隊の秋田県出身者6人
藤本さんと同期入隊の秋田県出身者6人

「戦死した仲間に日本の現状を伝えるとしたら、とにかく良い国になった。あの戦争のおかげだと伝えたい」と藤本さんは静かに語った。

(秋田テレビ)

秋田テレビ
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