戦後80年の夏、長野県伊那市に残る戦争の記憶です。かつて市内には陸軍の伊那飛行場があり、ここから特攻へと向かった少年兵もいたということです。こうした歴史を知らない世代も増える中、当時、建設に携わった男性に話を聞きました。飛行場を巡る新たな発見も相次いでいます。
■15歳で飛行場建設に動員された春日さん
伊那飛行場建設に従事・春日博人さん:
「早く飛行場を造りたいなという気持ち。早く造って戦争に協力しなきゃいけない、当時は。だから一生懸命造りました」
80年前の出来事を振り返るのは、伊那市に住む春日博人さん。8月、97歳になります。太平洋戦争のさなか、陸軍の飛行場建設に携わりました。
伊那市上の原地区。田畑や住宅が広がるこの場所に、かつて「陸軍伊那飛行場」がありました。
約150ヘクタールの敷地に長さ2000メートルの滑走路がありました。
春日さんは旧制中学に通っていた15歳のころ、1年ほど、勤労奉仕で飛行場の建設にあたりました。作業には、春日さんのような学生の他、地元住民や朝鮮半島から来た人も多く動員されたといいます。
伊那飛行場建設に従事・春日博人さん:
「高い所の土を崩して、トロッコに載せて、レールの上を回転して谷の方へ持っていって」
■なぜ伊那に飛行場が造られたのか
太平洋戦争は1941年に開戦。その後、アメリカ軍による日本本土への空襲が始まり、軍は施設の地方移転を進めます。
周囲を3000メートル級の山に囲まれた伊那は、「秘匿性が高い」と陸軍航空本部の目に留まり、飛行場が建設されることとなりました。
陸軍伊那飛行場は1944年2月、埼玉の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教所」として完成しました。
■「特攻隊」少年兵もここから…
春日博人さん:
「飛行場を造るということは飛行機に飛んでもらうわけですから、一生懸命、私たちは作業で応援したわけですから。最初の飛行機が飛んだ時はうれしかった」
赤い複葉飛行機、通称「赤とんぼ」が連日、訓練で伊那の空を飛び回っていたといいます。
春日博人さん:
「飛んだね、赤とんぼ、練習機ですね。それから特攻隊で行った飛行機も飛びました。朝から飛んでました」
当時、陸軍伊那飛行場には約200人の見習士官や少年航空兵がいました。中には後に特攻隊として戦地へと向かった少年兵もいたといいます。
春日博人さん:
「神風特攻隊にもここから行っているんですね。年齢は(自分と)同じくらいですからね。本当に身につまされた」
■飛行場跡地での発掘調査
この伊那飛行場の歴史を後世に伝える取り組みが広がっています。7月31日、飛行場の跡地で伊那市による発掘調査が行われていました。
伊那市教委・熊木奈美主事:
「亀裂みたいになっているんですけど、ここは格納庫の基礎を入れる時に掘られた穴です」
1.4メートルほど掘った所に、天竜川から運んだ丸石を積んでコンクリートで固めた、格納庫の基礎が確認できました。
資料をもとに格納庫を再現した模型。今回調査したのは、建屋の基礎や扉を収納する部分です。
伊那市教委・熊木奈美主事:
「戦後80年ということで、当時の記録・記憶を証言できる方もだいぶ少なくなっている中で、構造物として今も変わらず残るという意味では、一つの時代のシンボル、思い出させるものとして、地域の方々で大事にされてきたものだと思います」
80年間、残されてきた「戦争遺跡」。しかし一帯では道路の建設が予定され、この場所は計画地に位置しています。地元住民から「保存してほしい」という意見が多く寄せられていて、今回の調査は保存方法などを検討するのが目的です。
伊那市教委・熊木奈美主事:
「過去の記録・記憶と単にそこに留まるのではなく、今の若い世代にも実感をもって伝えられていくような記録を今の時点でできる限りのことはしたいなと思っています」
■発見された貴重な「赤とんぼ」のプロペラ
長さ2.5メートルもの木製のプロペラ。伊那飛行場を飛んでいた「赤とんぼ」のもので、2025年、市の民俗資料館の倉庫で発見されました。
伊那市教委・濱慎一学芸員:
「これを見ると本当に伊那の地に戦争に使うための飛行場があって、こういう飛行機が飛んでいたんだなってことが身近に思えますよね」
伊那市教育委員会の学芸員、濱慎一さん(48)です。
濱さんは市民に飛行場に関係する資料の提供を呼びかけ、再現模型などを展示した企画展を2024年から開いています。
2025年は、新発見のプロペラを展示のメインに据えました。
伊那市教委・濱慎一学芸員:
「本物のプロペラと後ろの写真も本物の赤とんぼの大きさにしてあるので、こんなものがこの伊那の上空を飛んでいたんだということを実感していただける、そういうものになっていると思います」
地元の小学生:
「伊那公園の近くに飛行場があったなんて思わなかった」
「(戦争を)知っているかもしれないから昔から生きてきた家族、おじいちゃん、おばあちゃんに聞いてみたいです」
■新たに発見された貴重な写真
伊那飛行場の所長を務めた男性のアルバムも、2024年に発見されました。練習機の前に並ぶ7人の訓練生。背後にはまだ建設用の足場が残る格納庫も確認できます。そして、訓練で飛び立つ直前の隊員たち。奥には、練習機「赤とんぼ」も見えます。
伊那市教委・濱慎一学芸員:
「これまで伊那飛行場に関係した方のイラストですとか、話でしか想像できなかった飛行場の様子が、本物の写真が出てきたということでどんな飛行場だったのかがはっきりと分かるようになりました」
伊那飛行場は存在自体が軍事機密とされ、終戦後に資料は処分されたとみられていました。そうした中、2024年の企画展をきっかけに新たな資料が見つかり、その後も発見が続いています。
伊那市教委・濱慎一さん:
「こういった実物の資料はなくなることがないので、こういうことを通じてかつてあった戦争の事を忘れない、そしていろいろ考えてもらう、そういうきっかけになればいいかなと思っています」
■終戦を迎えた時の思い
伊那飛行場が完成した1年半後、戦争は終わりました。建設に携わった春日さんは、終戦を自宅で知りました。
春日博人さん:
「負けるとは思わなかった。『絶対勝つ』。そういう教育を叩きこまれていたからびっくりした。いよいよ明日から戦争終わってないんだなって、嬉しいような空虚な気持ちだった」
「(戦争に勝ったらどうなると教わっていた?)『日本の国は立派な国になる』(国が)そういう教育をしていた。今考えれば戦争に協力していた」
春日さんは戦後、社会科の教師に。自身の体験も交え、無益な戦争を繰り返してはいけないと教えてきたといいます。
春日博人さん:
「戦争中のことを思い出しながらやりました。戦争というものは大変ですよ、簡単に戦争はいけないって言うけど、本当に私たちは戦争を通してみてそう思う」