日本が太平洋戦争に敗れて80年の節目である今年。この時間では山陰に残る戦争の体験や記憶を映像で残す企画を毎月、放送しています。
7月28日は山陰が標的となった空からの攻撃・空襲についてです。
取材した福村記者です。
福村翔平記者:
「山陰両県が最も激しい空襲を受けたのは80年前のきょう7月28日です。なかでも大惨事となったのが松江市の『玉湯空襲』と大山町の『大山口列車空襲』です。TSKでも過去に生存者の証言などを取材してきましたが、80年たった今、多くが亡くなるなどしてそれも難しくなりつつあります。戦禍の記憶と記録を薄れさせないためにもここで改めて当時を知る人の証言を取材しました」
松江市玉湯町の報恩寺。
「玉湯空襲」の犠牲者を追悼する慰霊祭が営まれ、関係者が慰霊碑に手を合わせました。
同じころ、大山町でも。
「大山口列車空襲」の慰霊祭が営まれました。
どちらの慰霊祭にもかつては実際に空襲を体験した住民が参列していましたが、80年の歳月とともに多くが鬼籍に入ったことで、近年は遺族や地元有志が中心となって営まれています。
大山口列車空襲被災者の会・金田吉人会長:
「被災者の先輩方がゼロになってしまった。残された戦争を知らない私たちが引き継いでいく」
山陰が戦場と化した日。昭和20年7月28日。
数少なくなった目撃者の証言を改めて掘り起こします。
戦局の悪化から本土決戦が現実味を帯び始めた太平洋戦争末期。
山陰の空に米軍機が襲来しました。
国野正好さん(84):
「汽車の燃えた残骸がしばらくここにありました。大変な騒ぎでした」
大山町の国野正好さん。5歳の時の記憶です。
国野正好さん(84):
「飛行機が射撃するということで、この松の木に隠れようとバックした。それでも米軍はわかっている。ここに汽車がいるというのは。ものすごい低空でバリバリと汽車に集中的に撃っていた」
米軍機から隠れるように大山口駅近くに停まっていた列車を、機銃掃射とロケット弾が襲い、45人以上が犠牲となりました。線路脇のコンクリートにはその弾痕がいまも残されています。
これは乗っていた中学生がのちに描いた車内の様子です。
列車は勤労奉仕で動員された学生や女性などで満員だったといいます。
国野正好さん(85):
「空襲が終わった後は公民館があってそこが救護所になって、ケガ人をみんなで一生懸命運んだ」
米軍機が去ったあと、ケガ人は大山口駅で降ろされ、死体と助かる見込みのない人だけを乗せた列車は死体を安置するため米子駅を目指して走り出しました。しかし、淀江町あたりで再び米軍機が姿を表しました。
証言があります。
安江英彦さん(89):
「キキキーという音がして、何かと思ったら列車が停まっているわけです。列車のデッキに死体が折り重なって倒れていました。折り重なった遺体からまだどす黒い血がぽたりぽたりと線路に落ちるわけです」
松林に隠れるように停車した列車を至近距離で目撃した安江英彦さん。
頭から離れない光景があるといいます。
安江英彦さん(89):
「お父さんが列車に上がって死体の中から自分の娘を一生懸命探された。そうすると死体の中に埋もれるような形で娘がいて声をかけたら『お父さん…』とだけは言ってくれた」
16歳の少女はその後すぐに事切れたといいます。
安江英彦さん(89):
「あれから80年も経ったのか…」
同じ日、米軍機は宍道湖の上空にも現れました。
本間順一さん(89):
「スーっと飛ぶんですよ。その時に胴体に星のマークが見えた」
松江市の乃木駅近くの宍道湖で友人と水浴びをしていた本間順一さん。
低空飛行の米軍機が次々と飛来してくるのを目撃しました。
本間順一さん(89):
「するとバーンという音がして、ちょうどあのマンションがあるところで白い煙があがった」
建設中だった海軍の水上偵察機の基地が攻撃され、25人が死亡しました。
本間順一さん(89):
「今度はこっちに来てグリングリン回って列車を機銃掃射した。その時にもロケット砲のパーンという音がしました」
その後、現在の玉造温泉と乃木駅の間で停車していた列車も空襲を受けました。
しばらくして乃木駅に着いた列車の中は…。
本間順一さん(89):
「やがて乃木駅がやかましくなったわけです。人がたくさん来てバタバタしてる。列車がゆっくりやってくる。よじ登って列車の中を見たら、つり革につかまっているけども片手がないんですよ。その人と目が合ってびっくりして後ずさりした」
列車の乗客14人が犠牲になりました。
この「玉湯空襲」の目撃者で、現在、語り部活動をしている男性がいます。
伊東節雄さん(86):
「外へ見るという感じではなくて、どうやって逃げて隠れて助かるか、それで精一杯でした」
海軍基地のすぐ近くに住んでいた伊東節雄さん。
7月27日は戦後80年に合わせ、玉湯公民館で自身の体験を語りました。
町内の小学校などで10年以上こうした講演会を開いていますが、経験者として玉湯空襲を伝える活動をするのはいまでは伊藤さんただ一人です。
伊東節雄さん(86):
「もう島根県では一人かということで、せめて小学校で子どもにはお伝えしないといけないなという気になって資料を集めたりしながらお話しています」
1945年・昭和20年7月28日。
全国の都市と同じように山陰も「空襲の標的」となり、多くの民間人が命を落とした事実…。決して風化させてはならない悲惨な戦争の爪痕です
福村翔平記者:
「今回、3年前、5年前に話を聞いた方に改めてお話を伺おうとしましたが、亡くなられていて、それは叶いませんでした。80年という時が経ち、体験者の声を直接聞けなくなる時代が刻一刻と迫って来ています」