「ひろしま棚さんぽ」です。
かつて広島県内に存在した子どもたちの夢の国シリーズ、第3弾です。
呉ポートピアランド、ヒロシマナタリーと来て、最後はなんと、開業は戦前という遊園地の跡を巡ります。
やってきたのは、広島電鉄楽々園駅の前に店が連なる楽々園商店街。
昔ながらの八百屋さんや魚屋さんが営業し、どこか懐かしい雰囲気が漂う商店街です。
【棚田徹さん】
「ここはですね。私が多分、小さい頃に行った写真が一枚あって、この遊具に乗っているのが楽々園なんですよ。で、その頃の遊園地が向こうにあったはずなんです。だから、そこに行ってみようと思います」
幼き日の棚田少年の記憶をたよりに向かった、かつて遊園地があった場所。
そこは現在、ショッピングセンターになっていました。
当時に詳しい方と、ここで待ち合わせです。
【広島電鉄 広報ブランド戦略室 藤田睦さん・棚田徹さん】
「(写真は)昭和40年ぐらいなんですよ。で、これちょっとなんか遊具みたいなものに乗ってるじゃないですか?」
「ええ」
「楽々園と書いてあるけど、これ間違いなくここですよね?」
「そうですね。昭和46年1971年までこの辺り遊園地だったものですから、その遊園地に間違いないです」
呉ポートピアランド、ヒロシマナタリーに続く3つ目の遊園地の正体は、かつての佐伯郡五日市町に存在した楽々園遊園地。
開業は戦前の昭和11年、1936年にまで遡ります。
園内には海水浴場やプールもあったそうです。
【広島電鉄 広報ブランド戦略室 藤田睦さん・棚田徹さん】
「いろんな遊具があったんですね」
「はい、そうですね」
「これがその当時の楽々園遊園地?」
「そうですね、ええ。これがジェットコースター」
「これがジェットコースター?」
「そうですね。昭和40年にできたものですね」
「この丸いのは何ですか?」
「はい、これは天文台でして、プラネタリウム、当時ありました」
「プラネタリウム」
「ちゃんと専門の学芸員さんがいて、天体のことを子どもに勉強してもらったりとか」
「すごい」
「中には温泉もあって…」
「え?温泉も?」
「ええ、スパ楽々園という温泉が」
「へー、そうなんですか。これ、もともと、どうしてここに遊園地があるんですか?」
「広島電鉄、当時、広島瓦斯電気という会社だったんですけど。宮島線をどんどん建設してまして…」
「はい」
「その中で単に鉄道走らせるだけじゃなくて、沿線の開発」
「沿線開発!」
「遊園地も作りましたし、この周りの住宅地も当時は別荘地になるんですかね。
の開発もしまして」
「別荘もやってたんですか?」
「ええ。その分譲もやってました」
「楽々園という名前はだいたいどういうあれなんですか?」
「おそらく広島から、ラクラク行けるから。楽々園にしたんじゃないかって言われてます」
「広電に乗ってラクラク行ける楽々園」
「そうです、そうです」
楽々園遊園地は35年間営業し、1971年に閉園。
その後跡地には、『ひろでん楽々園ショッピングタウン』がオープンし、敷地内にはパットゴルフ場などのレジャー施設も作られました。
その後も時代に合わせてリニューアルを続けて…
去年12月、イオンタウン楽々園に生まれ変わりました。
【広島電鉄 広報ブランド戦略室 藤田睦さん・棚田徹さん】
「楽々園の遊園地ができたのは戦前ですか?」
「はい、そうです」
「めっちゃ古いですね」
「そうですね。もう90年くらい前、戦争中も昭和19年くらいまでは営業していたみたいなんですね。国全体が戦時体制になっていく中で、楽々園遊園地ってどうしてたんだろうって調べてみると、結構面白いですよね」
「そうなんですか?」
「例えば、こういう飛行塔がありますけれども、太平洋戦争の最中、昭和18年にできたんですが、当時の書類見てみますと、『少国民の航空思想を涵養するため、航空塔を設置する』」「なるほど」
「今で言うと子ども達に飛行機という兵器ですよね。その重要性を知ってもらうために飛行塔を作ったと」
「なるほどなるほど。そういう理由があったから作れたみたいなところがね」
「あと戦争直後には食糧が不足していますから」
「食糧不足?」
「畑にしたりとか」
「遊園地で畑?」
「はい。やっていたみたいですね」
楽々園遊園地の歴史にずきゅん。としたところで、再び楽々園商店街へ。
当時の遊園地に関する貴重な資料を持つ人の元を訪ねました。
【フレッシュミートイナダ 伊奈田博樹さん・棚田徹さん】
「あ、ご主人いらっしゃいますね。ごめんください」
「はい」
「貴重な資料というか…なんか関係していらっしゃるって聞いたんですけど」
「はい。うちのおじいさんがカメラとか、そういう8mmが趣味で」
「おおー」
「昔の遊園地とかを撮った映像はありますけど…」
「動画があるってことですか?」
「はいはいはい」
フレッシュミートイナダは楽々園商店街で長く続く精肉店。
ご主人の祖父、喜三さんは8ミリフィルムを撮るのが趣味で、1960年代の楽々園の様子を撮影していたそうなんです。
【フレッシュミートイナダ 伊奈田博樹さん・棚田徹さん】
「これがその動画ですね。懐かしの楽々園…」
「そう、そう、そう」
「カラーですもんね」
「これ、うちの店ですね」
「え?お店、お肉屋さん」
「そうそう。うちのお店です」
「もう何年店、やっとってんです?」
「ここではもう66年…」
「長いよね。これ今、音楽が『上を向いて歩こう』が流れてますけど、これ歌ってるのは坂本九さんじゃないですね」
「違いますね、あれは僕らですね」
「え?ご主人。ご主人がやってるの?バンドなんですか」
「一応オヤジバンド」
「オヤジバンド。え、バンド名は?」
「楽々らっきーず!」
「楽々らっきーず…楽々園以外では絶対にないですね。ライブするんですか?」
「ライブは年に1回あるんですよ」
「やりますね」
「1回だけね」
「で、これ商店街周辺。あれ、マラソンとか?」
「これ2号線です」
「あ!2号線」
「あのー、あれなんですか…駅伝っていうんですかね?」
「駅伝ですね。ただ一般車両と一緒に走ってますね、これ」
「そう、昔こういう感じだったんですよ」
「あー、遊園地?遊園地。えー、カップ?」
「コーヒーカップね」
「きれいなコーヒーカップじゃね」
「これ。あ、ジェットコースターも」
「はい、はい、はい」
「よく撮ってますね」
「なんかすごい趣味だったみたいでね。結構、旅行カバンにいっぱい位あったんですよ。
フィルムが出てきて」
「フィルムが…」
「急にこう片づけて片づけようったら出てきて。で、それを見たらこういうものだって。
ただ何せフィルム、結構高価じゃないですか」
「はい」
「だから必ず僕が映ってるんですよ。最初に」
「あー、それ子どもを映すから」
「そう!で余ったら、その分でこの商店街を撮ったりとかしたものなので、ちょっとね、恥ずかしいんですよ」
「そうか、必ず映って、フィルムが余ったから、撮るものがないから、風景を撮っていたと」「そうそうそう」
「ところが今、その…」
「そっちの方が大事!はははは」
「当時の服装とか、そういうのめっちゃわかりますもんね」
「もう昔はこれね、ゴーカートとかがあるんですけど、タキシードで乗っとっての人もおったし…」
「へー!賑わってますね。これ裸の人もいますね。海パンの人…プールがあるからか!」
「あーパラダイスプールってありましたね」
「うわー、芋の子を洗うとはこのことですね。思い出すんじゃないですか、当時のことを」「僕はこういうのを見て、なんとなく記憶にあるだけで。実際はもう5歳なんで、あんまり記憶にはないんですけど」
「なるほど」
「その後もまた今度はパットパットゴルフになったりとか…」
「あー、なりましたね」
「あのボーリング場があったりとか…いろんなこう、時代とともに変わっていったんで、その分の記憶があるんですけど」
「でもまたなんかちょっと賑やかな感じになりそうな気がしますよね」
「イオンタウンさんがきちゃったんで、ありがたいことに。7月に土曜夜市もあるんですけども、その時にイオンタウンさんとタイアップして…」
「出ますか?」
「出ます!楽々らっきーず30分ステージやるので…」
「30分もやるんですか?大舞台ですね、期待してますよ」
「ありがとうございます」
「はい。元気で頑張ってください」
そして次回は…
【棚田徹さん】
「これも広島産。うわ、うまそう」
楽々園遊園地の今の姿、イオンタウン楽々園のなかで、ずきゅん。
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