80年前の戦争で日本の統治下にあった台湾では20万人を超える人たちが日本人として戦地に赴きました。
台湾出身の元特攻隊員の男性が、かつての祖国・日本への複雑な思いを語りました。
海軍で覚えた「手旗信号」を披露するのは97歳の台湾男性。
特攻隊に所属していた元日本兵です。
元日本兵・陳金村さん:
ここに爆薬。250kgの爆薬がここにある。アジアのため国のため、天皇陛下のために。
今も日本を頻繁に訪れるという男性が取材中に絞り出した「日本に見捨てられたみたいな…」というひと言。
台湾の元日本兵が抱える思いとは…。
台湾・台北市。
取材班が同行させてもらったのは、日本兵を研究している陳柏棕さんです。
柏棕さんは、これまで100人近い元日本兵と会って証言を集めてきました。
出会ったのは陳金村さん(97)。台湾生まれの元日本兵です。
50年間にわたって日本の統治下にあった台湾。
太平洋戦争が始まると、20万人を超える台湾の人たちが日本人として戦地に赴きました。
金村さんも今から81年前の1944年、17歳の時に海軍に志願しました。
日本語で教育を受けてきたため、今でも流ちょうな日本語で会話ができます。
元日本兵・陳金村さん:
日本教育だから、日本精神を持ってアジアのため、国のため、天皇陛下のために。(野球の)バットに海軍精神注入棒って書いてある。こう立ち上がってね、それからケツを締めて手をあげろって。いいか?はいっ!と…。ここ。
当時、海軍の拠点があったのは台湾南部の高雄市です。
金村さんがいた部隊の跡地には今もなお当時の防空壕が残されています。
空襲があると、この中に17人の兵士が避難したそうです。
アメリカ軍の空襲の合間を縫って金村さんたちが行っていたのは「特攻」の訓練でした。
爆弾を積んだまま敵艦に体当たり攻撃をする特攻艇「震洋」。
“太平洋を震撼させる”という意味が込められていました。
戦争末期、アメリカ軍の上陸に備えて台湾にも10カ所に「震洋」の部隊が置かれ、金村さんも整備兵としてその1つに配属されました。
元日本兵・陳金村さん:
誉れなことだと、そう考えとったんです。特攻隊員だから光栄の至りと思っていたんです訓練中はね。
しかし、「震洋」の実物を目の当たりにして言葉を失ったといいます。
元日本兵・陳金村さん:
こんな薄い2~3㎜くらいのベニヤ板で作った。(Q.それで特攻ってできると思いましたか)みんなそう思っていたけど言えないんだよ。
結局、アメリカ軍は台湾に上陸せず、部隊は出撃しないまま終戦を迎えました。
戦後、台湾にやってきたのは中国本土からきた国民党政権です。
金村さんは元日本兵ということを隠して生きてきました。
撤退した日本政府からは戦没者ら一部に弔慰金が支払われただけで、ほとんどの元日本兵に戦後補償はありませんでした。
金村さんは今でも数カ月に一度日本を訪れるという親日家です。
しかし、かつての祖国への思いは複雑です。
元日本兵・陳金村さん:
なんだか日本に見捨てられたみたいな気がする。同じ海軍、日本海軍よ。同じ日本の震洋特攻隊よ。みんな日本人は恩給をもらっている。台湾はどうして?慰問の手紙一枚もないの。僕らね、本当に日本に力を尽くした。日本人として日本に背いたことはなかった。
実は元日本兵の研究をしている柏棕さんの曽祖父や大叔父も元日本兵で、そのことが研究の原動力になっています。
日本兵を研究している陳柏棕さん:
日本の人たちに元日本兵の理解を期待する以前に、まず私たち台湾自身、若い世代が理解していないんです。
台湾では民主化が進むまで日本統治時代を学ぶ機会が少なく、戦争の記憶が引き継がれてきませんでした。
柏棕さん自身、身内に元日本兵がいることを大人になるまで知らなかったといいます。
日本兵を研究している陳柏棕さん:
戦争は決して遠い過去のものではなく、私たちのすぐ近くにある現実です。私の力は限られていますが、できることを精いっぱいやって、より多くの人に「戦争は命を奪う現実」と知ってもらいたい。
金村さんが海兵時代を過ごした高雄市のはずれ。
ここには、海のほとりに小さな展示施設があり、日本人として戦った台湾の人たちの記憶が眠っています。
この沖では5月も中国による軍事演習が行われました。
いわゆる台湾有事が懸念される現状に金村さんは警鐘を鳴らします。
元日本兵・陳金村さん:
戦争がどんなものか分からないんだよ…。だから今、台湾の政治もそうなってきてるんです。戦え戦えと。戦争っていうものはね…人間の地獄だよ。
戦争に翻弄された97歳。
金村さんは、戦争の記憶が次の世代につながることを願っています。