特集は継続的にお伝えしている「語り継ぐ戦争の記憶」です。80年前の8月、太平洋戦争の終戦直前に女川湾一体が空襲を受け多数の死者が出ました。当時、海軍の通信兵としてその空襲に遭った人が仙台にいます。100歳になった今も忘れないという当時の記憶を聞きました。

川村孝太郎さん
「これが戦争かなと思ったけど。とにかく私は震えていた」

仙台市若林区に住む川村孝太郎さん。大正13年・1924年8月26日生まれ、現在100歳です。太平洋戦争当時、旧海軍の通信兵でした。

18歳の時、会社員となりましたが、すぐに徴用され、神奈川県横須賀市の海軍通信学校に入りました。

川村孝太郎さん
「通信と手旗、両方やった。手旗信号というのは『イ』『ロ』『ハ』『ニ』とか。海軍通信学校はもうとにかく競争ですよ。何でも。遅いとやられちゃってね。教官に殴られたり」

6歳から宮城県内で暮らしていたこともあってか、海軍通信学校を卒業すると女川町へ派遣されました。

所属したのは「女川防備隊」という部隊。当時、女川町は横須賀と北海道を結ぶ「三陸航路」の重要な中継地点で、海軍の船や漁船を守るのが任務の部隊でした。

しかし、配属からわずか1カ月後の1945年8月9日早朝、女川町は空襲に見舞われたのです。終戦の6日前の出来事でした。

川村孝太郎さん
「駅の裏の方から突然来たんです。アメリカとイギリスの航空母艦が来て、何回も繰り返して攻撃してきたんじゃないかな」

乗っていた船から火が出て川村さんは上官から、消火のために人を呼んでくるよう命じられて船を離れました。その途中に攻撃が激しくなったといいます。

近くの山に逃げ、呆然とその光景を眺めていた川村さん。戦闘機や爆撃機は女川の町を超低空飛行で襲ってきたと記憶しています。

川村孝太郎さん
「飛行機の操縦士の顔も見えた。見えたくらいに低空飛行」

町の歴史を記した「女川町誌」にもこの空襲の記述があります。空襲は2日間にわたり女川港一帯の軍事施設はほとんどが破壊されました。

海軍の戦死者は158人、民間人にも犠牲者が出て合わせて200人以上が亡くなったとされています。

川村さんは当時目の当たりにした圧倒的な戦力の差をこう表現しました。

川村孝太郎さん
「大人と子供の喧嘩と同じ」

富谷市に住む阿部浩さん(70)。女川空襲を含む太平洋戦争末期の県内の記録などをまとめて漫画にし、25年ほど前に自費出版しました。

社会科の教師をしていた阿部さんが長年かけて集めた資料を基に、自ら絵も描いて当時の状況や背景を伝えています。

阿部浩さん
「この女川空襲は、イギリス軍とアメリカ軍合同の艦隊が攻撃したというのが一つの特徴」

女川空襲と同じ日には、松島や福島、岩手など東北各地が空襲を受けています。その年の5月、ドイツが連合国に降伏した後、イギリスの艦隊は目標を太平洋に移しました。女川をイギリスの飛行機が空襲したのもそうした背景があったためと見られます。

女川町にはこの空襲の慰霊碑があります。毎年8月9日、10日は慰霊碑の前で追悼式が開かれています。川村さんはこの追悼式に毎年参加し自身の体験を語り続けています。川村さんには、毎朝日課にしていることがあります。

妻・ふみ子さんと女川空襲で亡くなった人たちの冥福を祈る般若心経。川村さんの目には今もあの日の光景が焼き付いています。

川村孝太郎さん
「空襲の光景だけは今でもよみがえる。飛行機が来てどんどん女川の船を攻撃した光景だけは忘れない」

伝えたいことは一つです。

川村孝太郎さん
「絶対に戦争はしては駄目。方々で戦争しているし、日本だっていつ何時そういうものに入らざるを得くなるかもしれないが、絶対にやっては駄目」

仙台放送
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