1945年5月14日、名古屋城が焼け落ちた大規模な空襲から2025年で80年が経った。高齢化で当時を知る人が減少する中、戦争体験者の「生きた言葉」を、動画として未来につなぐ取り組みが始まっている。

■名古屋城も燃えた…80年経っても消えない「戦争の記憶」

名古屋市名東区にある戦争と平和の資料館「ピースあいち」には、太平洋戦争による空襲被害を伝える写真や、戦時下の暮らしの道具など、数多くの資料が展示されている。

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名古屋への空襲で多く使用された焼夷弾(しょういだん)も展示されている。一般的な爆弾とは異なり、目標を爆発により破壊するのではなく、中に燃料が入っていて、火災を発生させるものだ。

来場した女性:
祖母から空襲があったっていう話は聞いていましたけど、軍服とかあるとよくわかります。

子供と一緒に訪れた父親:
戦後80年ということで先月も広島に行ってきたところで、昔の話で子供は知らないと思うんですけど、こういうことがあったということを知ってほしいなと思っています。

1945年5月14日、名古屋市におよそ2500トンの焼夷弾が投下され、名古屋城が焼失した。

太平洋戦争の期間中、名古屋は63回の空襲を受け、死者はあわせて7858人、負傷者は1万378人にのぼったという。

初めて大規模な空襲を受けた1944年12月13日は、現在のバンテリンドームナゴヤの近くにあった三菱重工業の工場が標的となった。

工場のすぐそばに住んでいた森下規矩夫(もりしたきくお 87)さんは当時小学1年で、父親は三菱重工業で働いていた。

大量の爆弾が落とされ、森下さんは近くの防空壕に避難したが、空襲が終わり外に出ると、自宅が炎上していたという。

森下規矩夫さん:
焼夷弾を落とされて私の家は燃えてしまった。消火には誰も来なかった。母と近くの主婦2人、たった3人でバケツで(水をかけたが)無意味で、あっという間に燃えてしまって。

戦後に撮影された小学3年生の時の集合写真は残されているが、それまでの写真はすべて燃えてしまったという。

■若い世代にどう伝えるか…当時の体験を「絵」に

戦後の貧しい時代を乗り越え、機械の設計の仕事をしてきた森下さんは語り部として、次の世代に語り継ぐ活動をしている。2024年9月、高校生ら若い世代に、当時の辛い体験を語った。

高校生:
当時の森下さんは空襲が来ることについで、どう思っていましたか。

森下規矩夫さん:
日本は勝っているという話ばかりでしたから、まさか日本の空にアメリカの飛行機が飛んでくるなんて想像もしていなかったですね。

森下さんは当時の体験を自ら絵にして、体験を語り継ぐ際に使っている。そのうちの1枚には防空壕の中で涙を流す弟と、不安におびえる森下さんの姿が描かれている。

森下規矩夫さん:
残しておきたいという気持ちもあったね。空襲の実際防空壕の中でどういう、おびえていたという感情を出したらいいかわからないので、絵を描いた。

疎開した三重県鈴鹿市での生活を描いた絵もある。

森下規矩夫さん:
軍隊が駐屯していて、陣地を作っていたんですよ。そこへよく遊びに行ったの。ちょうど夕食ごろになったら、隊長が「夕食を食べていきな」と。ジャガイモをふかしたの、ジャガイモと塩だけですよ。友達とふたりでもらって食べた。

■「戦争の爪痕」いまも…高齢化で語り部は「記憶の限界」

終戦から80年が過ぎても、戦後はまだ終わっていない。名古屋市南区の笠寺公園には、空からの攻撃に備えた、陸軍の砲台の跡が残されている。

2025年に創業100周年を迎えた松坂屋は空襲で建物が全焼したが、当時の焼け焦げたあとが、建物のいたるところに残されている。

最近では名古屋市の中心部で不発弾が相次いで見つかるなど、「戦争の爪痕」は令和の時代も残されたままだ。

二度と過ちを繰り返さないために、戦争の語り部たちは活動を続けているが、メンバーの高齢化は深刻だ。80代まで歳を重ねた人でも当時はまだ幼く、詳細な記憶は残っていない。

86歳の男性:
うちが燃えてしまったから、母親と一緒になって逃げたんですけど、それで助かったんです。大勢の人が亡くなりました。まだ幼かったから、その怖さが分からなかったんですけど。

84歳の男性:
子供のときに母の背中におぶってもらって、逃げた記憶がちょっと。まだ3歳か4歳だったんですけど、怖かったんでしょうね。

ピースあいちの宮原大輔館長によると、10年前は戦争体験を語ることができる人が90人ほどいたというが、現在活動できるのは7、8人しかいなくなってしまった。語り部として活動する87歳の森下さんも、自分たちが戦争を知る“最後の年代”だという。

森下規矩夫さん:
語りを引き継いでくれる方はまだいないみたいで、限界でしょうね、記憶の。年下の人はもう覚えていないみたい。

■薄れゆく「戦争の記憶」…“デジタル”で次の世代へ

語り部たちの「生きた言葉」を未来に残すため、ピースあいちでは故人を含めた語り部たちの動画をアーカイブに保存し、公開を始めている。

2016年に、101歳で亡くなった杉山千佐子さんは、名古屋空襲の爆撃で左目を失ったが、戦争の悲惨さを伝えるとともに、空襲で被害を受けた民間人への補償を求め、活動を続けてきた。

杉山千佐子さん(2010年撮影):
火に焼かれるのも大変ですが、生き埋めになると苦しい、すぐ目がやられた、顔がやられた、これは相当重傷だと思っても押さえることができない。私たちに戦後はない、救ってください、助けてください。

「アマチン」の愛称で親しまれ、2023年に87歳で亡くなった俳優、天野鎮雄さんは、両親と疎開する途中、命の危機に直面した。

天野鎮雄さん:
そしたらまもなく艦載機がきて、バラバラバラバラって機銃掃射をしました。僕がバーッと伏せたら、お袋が僕の上にボーンと乗ってきました。当然おふくろの方が先に死ぬ。命を懸けているわけですよね。

天野さんは「飢餓と恐怖を子供たちに味あわせてはいけない」と、平和の大切さを訴え続けた。

87歳の今も語り続ける森下さんの思いも同じだ。

森下規矩夫さん:
戦争をやるかやらないかは政治が決めることで、多くの国民が戦争に反対すれば、国家は戦争することができない。今の世界情勢、日本の情勢を見るとその曲がり角に来ているように見えて、平和を維持するための何をするかというのを、出来ることは何かと考えて、いつもそういう気持ちで話をしている。

2025年5月14日放送

(東海テレビ)

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