戦後80年。
ライブBBTは、「戦争の記憶」を次の時代へ繋いでいくプロジェクトを進めています。
世界で唯一の被爆国、日本。
去年、日本被団協、日本原水爆被害者団体協議会が、ノーベル平和賞を受賞したのを機に「核兵器廃絶」を訴える声が強まっています。
この富山の地にも、原爆の恐ろしさを伝え続ける女性がいます。
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「日本は世界でただ一つ原爆を落とされた国。核兵器の恐ろしさを世界に伝えていく役割がある」
22日、朝日町の中学校で、ひとりの女性が、生徒に語りかけていました。
朝日町に住む佐野環さん。
佐野さんは、「被爆体験伝承者」です。
「被爆体験伝承者」は、被爆者本人に代わって、「被爆の記憶」を伝えます。
被爆者の高齢化に伴い、自身の体験を語る人が少なくなってきたことから、広島市が、2012年度から人材を養成し、委嘱しています。
講話の原稿作成、話し方など2年間の研修を積んだ「伝承者」239人が、全国各地で活動しています。
佐野さんは、21日、朝日中学校で講話を行いました。
3年生は、来月、修学旅行で、被爆地、広島に赴きます。
生徒に伝えたのは3年前、93歳で亡くなった在日韓国人2世の男性から聞き取った「証言」でした。
この男性は、当時、外国人として、差別を受けていました。
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「朝鮮人であることが分かると採用されないと思った(在日韓国人2世の)イさんは
紙に書いてあった朝鮮人という文字を消した。日本人『江川正市』として就職した」
そして、1945年8月6日、被ばく鉄道の仕事に向かう途中、被爆しました。
16歳の時でした。
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「顔が真っ赤じゃないか、やけどだ」
「機関車の真っ黒な油をイさんのやけどに塗った」
「やけどに効くのは植物性の油であって機械油ではない」
「イさんはもういいよと泣き出した」
佐野さんは、夫の転勤で2015年から4年半ほど広島市で暮らし、市内を案内するガイドを務めました。
被爆地、広島で暮らしたことが伝承者を志す、きっかけでした。
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「被爆地の戦争に対する思いと北陸で温度差がある」
「最初は自分も無関心だった、戦争がいかに愚かなのかを学ばずに未来は無い」
世界で唯一の被爆国、日本。
80年前、広島の街に悲惨な、無残な光景が広がりました。
その記憶を、若い世代にどう伝えていくか佐野さんは、その難しさを感じています。
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「イさんの体にウジがわいた話をしても今の子たちはピンとこない。同じ教室にいる先生は、顔をしかめるけど、子どもたちはふーんという顔をする。被爆者がウジをわかしたのは日常茶飯事」
「80年の年月があると変わってしまうものはたくさんある」
かつて、被爆した人の思いと次の世代をつなぐ伝承者。
富山の地で、「戦争の記憶」を風化させない活動を続けます。
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「人を差別することなく思いやりの心をもって接すればいじめが生まれることはない、人と争わない。戦争を起こさないということにつながると思うんよ」
「話の中の一つでも二つでもいいから誰かに話してください。多くの人に核兵器の恐ろしさを知ってもらって戦争を起こさない、ということにしたら、本当の平和につながる」
*生徒
「被爆した後に川に人がたくさんいたことや中に遺体が流れていた。授業では被爆した後に一瞬で死んでしまったと(話が)流されてしまった。悲惨なものだと分からなかったから怖い気持ちになった」
*生徒
「被爆の怖さを初めて知った。この話はとても大切だと思ったので、次の世代にも語り継いでいきたい」
*被爆体験伝承者 佐野環さん
「同世代の子どもたちがあの日、どう生きて広島の街でどんな被害を受けたのか。自分の目線で(広島を)見てもらえたら」
全国で活動している「被爆体験伝承者」は、無料で派遣されます。
講話は、インターネットのサイトで申し込みができるので、佐野さんは、多くの人に聞いてもらいたいと話しています。
「戦後80年 ーつなぐー」
戦争体験した人、それを受け継ぐ人、そうした方々の「声」を伝え続けていきます。