旭化成陸上部で54年間にわたり、選手および指導者として活躍した宗猛総監督が、春に退任する。双子の兄、茂さんと共に日本のマラソン界で名を馳せた2人は、オリンピックにも日本代表として出場。現役引退後は若手選手の指導に専念し、日本陸上界を牽引してきた。多くの人々に影響と感動を与え続けた宗猛総監督の功績を振り返る。

旭化成陸上部で、選手・指導者として活躍してきた宗兄弟。

双子の兄、茂さんは、モントリオール・モスクワ・ロサンゼルスの3つのオリンピックで男子マラソン日本代表に選出された。

弟、猛さんも、モスクワ・ロサンゼルスの2つのオリンピックで男子マラソン日本代表に選ばれるなど、その時代のトップを走り続けた名ランナーだ。

現役引退後は、共に指導者として、谷口浩美や森下広一をはじめ、オリンピック男子マラソン日本代表として結果を残す選手を育て、日本陸上界をリードしてきた。

現在、旭化成陸上部の総監督を務める宗猛さんは、1971年に入社して以降、54年にわたり、チームを支え続けてきたが、2025年春、総監督を退任する事となった。
1953年、大分県臼杵市で生まれた宗兄弟は、中学時代から陸上で活躍しはじめ、高校時代には、全国高校駅伝に出場。

高校卒業後、陸上の名門・旭化成へ、強い想いを持って入社した。

旭化成陸上部 宗猛総監督:
旭化成のチームに入るということで、私たち2人とも「オリンピック選手になるんだ」という目標を持って入った。入社面接時、面接官に「僕はオリンピックを目指します」と言ったら、「いやいやそんな大きな話はいいから、まずは九州一周駅伝をちゃんと走ってほしい」と言われて、え!?九州一周駅伝でいいの?と思った。

高い志を持って旭化成入りした宗兄弟は、入社2年目には、延岡西日本マラソンに出場。マラソン初挑戦ながら、兄弟ワン・ツーフィニッシュという快挙を果たした。
メダルに届かなかった宗兄弟のオリンピック
そこからマラソンで着実に結果を残し、入社5年目には兄・茂さんがモントリオールオリンピックに出場。しかし、結果は20位。それを見ていた弟・猛さんは・・・。
旭化成陸上部 宗猛総監督:
そのときの結果が悪くて、やはりオリンピックに出るんだったらメダルが取れるぐらいじゃないと意味ないぞ、と。次のモスクワオリンピックに向けて練習した。
4年間の努力が実って、2人そろってオリンピックの代表になれたが、今度は日本がボイコットしてオリンピックに出場できず、夢は叶わなかった。
その後もオリンピックでメダルを獲ることを目標に頑張った猛さんは、続くロサンゼルスオリンピックの選考レース、1983年の福岡国際マラソンで4位に入り、3位だった茂さんと一緒に、再び兄弟そろって日本代表に選出された。
オリンピック本番では、兄・茂さんより早い、4位で弟・猛さんがゴールをするものの、真夏のマラソンに苦戦し、メダルに一歩届かなかった悔しさが残った。
自分の失敗を、指導者として次世代につなげる

旭化成陸上部 宗猛総監督:
夏のマラソンというのが当時あまりなかったので、練習がうまくいかずに苦戦した。ベストな状態ではない形でロサンゼルスオリンピックに参加した。そういう失敗があって、夏場の経験がその後の世界陸上東京大会の谷口浩美の金メダル、バルセロナオリンピックの森下広一の銀メダルにつながったと思う。我々が失敗したものを指導者になったときにどういかすか。

その後も、自らの経験を活かし、川嶋伸次、佐々木悟といった選手をオリンピックマラソン日本代表に育て上げた。
「走りたい」45歳まで走り続けた

猛さんは、副監督として後進を育てながらも、45歳までマラソンに出場し続けた。そこには、選手を指導する上でのこだわりがあったのだろうか?
旭化成陸上部 宗猛総監督:
いや、ただ単に、私が走りたいと思っていて、兄貴に相談したら「走ったらいいじゃん」と言われた。自分が走る試合を選んで、45歳まで走った。
Q.率直に、マラソン自体が好き?
旭化成陸上部 宗猛総監督:
面白い。練習も、次の試合のことをイメージしながらやっていくし、自分で自分の体を作っていって、レースでその力を出すという、非常に面白いなと思っていた。
数多くの駅伝大会で優勝を重ねる

旭化成陸上部はマラソンだけでなく、駅伝の世界でも結果を残し続けてきた。九州各県の誇りをかけてタスキをつないだ 『九州一周駅伝』では、宮崎県の36回もの優勝に貢献。毎年元日に行われるニューイヤー駅伝=全日本実業団駅伝では史上最多の26回の優勝を誇っている。
しかし、「勝って当然」のチームだからこその苦悩があった。旭化成は、1990年代は10回中9回も優勝した。しかし2000年から2016年まで優勝できない時期が続いた。

旭化成陸上部 宗猛総監督:
2025年のニューイヤー駅伝では26回目の優勝をしたけど、90年代は非常に良い時期もあったし、その後、十何年も全然勝てなくて、という時期もあった。そんな色々な流れの中で頑張ってこられたのは、やはりうちの会社の応援、社員の応援。そして地域の延岡市、あるいは宮崎県民の応援があったからだったと思う。

旭化成発祥の地である宮崎県延岡市は、多くのオリンピック選手を輩出したアスリートタウンとして知られる。その延岡で毎年5月4日に開催される長距離記録会が、「ゴールデンゲームズinのべおか」だ。

国内トップレベルの選手による真剣勝負が観戦できるこの大会の運営にも、長年、猛さんは自ら会場設営に携わり、アスリートタウン延岡づくりに貢献してきた。選手、監督としてはもちろんだが、日本陸連の強化委員会で中・長距離マラソン部長も務め、日本陸上界の底上げにも尽力してきた。この春、総監督を退任する宗猛さんが今後に期待する事は・・・。

旭化成陸上部 宗猛総監督:
駅伝では勝ってきたけど、最近マラソンが低迷している。もっとしっかりと走れる選手を育てていってほしい。日本全体としては、パリオリンピックで男子も女子も入賞しているし、ビッグレースになると、まだまだ日本選手も通用する部分があるので、オリンピックや世界陸上で活躍する選手を、ぜひ旭化成のチームから出していってほしい。

旭化成陸上部は、4月から宗猛総監督が顧問に西村功監督がスペシャルアドバイザーとなり、三木弘ヘッドコーチが新監督に就任する。
これまで宮崎県民は、宗兄弟からたくさんの元気をもらってきた。「お正月はニューイヤー駅伝!がんばれ旭化成!優勝!ヨッシャー!」と、1年の始まりを明るくスタートさせてもらってきた。熱い時間と感動に感謝の気持ちを送りたい。
宗猛さんの主な記録
1973年 延岡西日本マラソン(初マラソン2位)
1980年 モスクワ五輪 日本代表(日本ボイコットのため出場ならず)
1984年 ロサンゼルス五輪 日本代表(4位)
1988年 宗茂監督・宗猛副監督就任
1992年 バルセロナ五輪 森下広一(銀)・谷口浩美(8位)
1996年 アトランタ五輪 谷口浩美(19位)
1996年 別府大分毎日マラソン(8位)
1998年 延岡西日本マラソン(ラストラン)
2000年 シドニー五輪 川嶋伸次(21位)
2008年 宗猛監督就任
2014年 宗猛総監督就任
2016年 リオデジャネイロ五輪 佐々木悟(16位)
2025年 宗猛総監督退任
(テレビ宮崎)